昨日紹介したPiketty論考を基に、クリス・ディローが資本利益率と投資の関係について考察している。
以下はその概要。
- 資本へのリターンが高いために富の集中が生じるというPiketty理論は、利益率が低下していくというマルクス主義への反証になっている、とTim Worstallは言うが、必ずしもそうではない。というのは、
- その傾向は、上位1%の所得シェアの傾向とも一致している。
- しかし、利益率のトレンドの転換は、設備投資の上昇を伴わなかった。即ち、利益の上昇は投資誘因となっていない。
- その理由は、過去の投資と将来の投資の不連続性、ないし、既存の資産と成長オプションの不連続性にあるのではないか。即ち、過去の投資は利益率が高いとしても、将来の投資がそうとは限らない。iPadやコカコーラへの投資が利益を生み出したという事実は、新規ベンチャーの採算性について何も教えてくれない。投資はそもそも異質なものの集まりである。
- このことは、資本は集計できず、スムーズで微分可能な資本の限界生産物という概念が馬鹿げていることを意味している(それはかつて別の理由でケンブリッジ資本論争で指摘された点である)。そのことは、マルクス主義のみならず新古典派の考え方全般にとって深刻な問題となる話である。
なお、このエントリには今のところコメントが2つ付いているが、いずれもディローの見方に批判的である:
- Andrew Klimanを読むべし。彼は同様の利益率の指標を用いて同様の結論に達しているが、コンピュータ時代において非物的減耗(技術の陳腐化)が加速していることが多くのデータには反映されていない、と指摘している。その要因を考慮すると、利益率の低下のリバウンドは起きておらず、おそらく低下はさらに進んでいる。
- 幾つかの点で混乱が見られる:
- 利益は競争などの市場構造と関連している。一方、資本の限界生産物は物理的な生産過程の話であり、限界収益の話ではない。情勢が不透明なので人々が既存の資本に胡坐を掻いており、しかもその資本を増やすのは採算が合わない、と言うのは結構だが、それは生産関数とは関係の無い話。
- スムーズで微分可能な集約された単純な生産関数はモデル上の便宜に過ぎず、経済を大局的に見た場合に有用、ないしそれほど外れていない、とされているものである。クローズアップで見た経済を表わすと考えている人は誰もいない。現実の投資は異質なものの集まりなのでそうした生産関数は大局的にも誤り、というならば、どこで誤っているかを説明する必要がある。現実は異質なものの集まり、生産関数はそうではない、よって生産関数は馬鹿げている、というのは説明になっていない。