はだかの銀行

FT Alphavilleのイザベラ・カミンスカが、コペンハーゲンデンマーク国際研究所(Danish Institute for International Studies)が開催した「岐路に立つ中央銀行(Central Banking at a Crossroads)」というセミナーに出席し、その中のAnat Admatiスタンフォード大学教授の講演プレゼン資料)が出色だった、として概要を報告している(ちなみにAdmatiは近々以下の本を出す予定との由)。

The Bankers' New Clothes: What's Wrong With Banking and What to Do About It

The Bankers' New Clothes: What's Wrong With Banking and What to Do About It


ミンスカは、銀行問題の処理に関するAdmatiの現状分析を以下のようにまとめている。

Bank resolution is fundamentally about transferring bank responsibility (and risk) away from the public sector and back to the private sector. It’s about making the banks responsible for themselves again by weaning them off state-aid.

Even though government loans have on the surface been repaid, the central bank put and the understanding that these institutions are now too big to fail, implicitly continues to provide an equity backstop. The equity risk has thus not yet really been transferred to the private sector at all.

This is an important given that by this point in the cycle QE has turned into a stealth transfer of risk away from the fiscal authority over to the monetary authority.
(拙訳)
銀行問題の処理とは、基本的に、銀行の責任(とリスク)を公的部門から民間部門に戻す、ということである。銀行を国の援助から引き離し、再び自己責任を取るようにする、ということである。
しかし、たとえ表面上は政府からの融資を返済したとしても、中央銀行プットと、これらの金融機関は潰すには大きすぎるという認識が暗黙裡に株主資本を下支えし続けるならば、株式のリスクが民間部門に本当に移転したことにはならない。
今や量的緩和が、リスクをこっそり財政当局から金融当局に移転するプロセスに変貌したことを考えると、この点は重要である。


だが、そうした暗黙裡の下支えも投資家を納得させるには至らず、銀行の株価は低迷したままである。そのため、銀行は株式発行による増資ではなく、借り入れの顔をした株式とでも言うべき条件付き資本(contingent covertible capital)によって資本を調達している。


では、なぜ銀行の株価は低迷し、銀行が株式による増資が不可能な状況に追い込まれてしまったのか? それは、短期借りの長期貸しという銀行モデルが、“お前はもう死んでいる”状態になっているからだ、とAdmatiは言う。ただし、そうした死が訪れたのは今回の危機のせいではなく、西側社会において実物投資リターンが低下した現代という時代のせいだ、とのことである。
そうした状況で、社会にリスクを転嫁するレバレッジの仕組みを銀行から取り上げ、株式発行による資金調達モデルを適用するならば、銀行は、リスクに適正な価格付けを行った上で貸し出しを実施するベンチャーキャピタルに転換するしかない。その場合、収益性の高い貸出先が見つけられなければ、手元資金を積み上げておくことになる――いずれにしろ今もそうなっているが――、というのがAdmatiの主張である。


ミンスカはAdmatiの議論から得られる結論を以下の3点にまとめている。

  • 銀行は、名目はともかく、事実上「政府貸し出し」を体現している。
  • 政府から暗黙裡の支援を受けているにも関わらず、銀行は収益性の高い貸出先を見つけるのに苦労している。
  • 銀行株が株式投資家に魅力的に映らないのも無理は無い。


その上で、さらに以下の3点の考察を展開している。

  • この状況下で政府が銀行に貸し出しを強要すれば、収益性の低い融資に向かわざるを得ない。それは無担保で紙幣を刷るのと同義になる。
  • 銀行業が民間部門に留まるならば、株式によって資金調達すべきである。しかし、もし収益性の高い貸出先が十分に無ければ、株式によって調達した資金は単に手元に積み上がるだけに終わり、貨幣供給は縮小する。
  • そうした貨幣供給の縮小を補うために、政府ないし金融当局は無担保で紙幣を刷るか、債務によって政府支出を拡大すしかない。そして、必要に応じて税金によって不胎化することになる。

つまり、カミンスカの考察によれば、Admati流の銀行問題解決策を適用しても、財政金融拡張策が必要な状況は変わらない、というわけだ。その上でカミンスカは、以下のような疑問を投げ掛けてエントリを締め括っている。

  • ひょっとして気がついていないだけで、我々は今や皆政府の被雇用者になっているのではないか?
  • 株式とは永久債ではないのか? そして貨幣とは国家の株式ではないのか? その点で両者に実質的な違いは無いのではないか?


金融財政政策による経済の下支えの常習化は、構造改革主義者が麻薬に喩えて忌み嫌うところであるが、今やそれは不可避になっているのではないか、というのがここでのカミンスカの問い掛けである。いわば、知らず知らずのうちに資本主義は社会主義に転化したのではないか、というわけだ。


なお、日本では、長期信用銀行(長期借りの長期貸し)という独特の業態があったが、金融危機の中で消滅した。うろ覚えで恐縮だが、そのうちの一行が経営破綻に瀕した時、いっそのこと銀行から商社に業態転換してはどうか、と監督官庁に勧告された、という記事を昔読んだ記憶がある。もしそれが実現していれば、Admatiの推奨策を先駆けて実施していたことになったのかもしれない。