David Glasnerの植田裁定

少し前に紹介したクルーグマンvsポストケインジアンの銀行論争に、David Glasnerも介入した


彼はそこで、準備預金が貨幣供給量を決定するという考え方を否定し、貨幣供給量は需要によって決定される、というポストケインジアン側の見解を完全に支持している*1


ただ同時に、中央銀行が貨幣供給量をコントロールできないわけではない、とも述べ、ポストケインジアン側にも釘を差している*2。そこで彼が喩えとして持ち出したのは、貿易における輸入割り当てと関税の関係である。輸入価格を上げて輸入量を減らすという点では、当局者が需給曲線を完全に知悉しているならば、輸入割り当てと関税は等価な政策となる。しかし、需給曲線に関する知識が不十分で、かつ、輸入価格の変動が輸入量の変動よりも悪影響が大きい場合には、輸入割り当てよりも関税の方が望ましい政策となる。そして、実際に関税が導入された場合、貿易業者が何ら制約無しに好きなだけの量を取引できるとしても、その取引価格を通じて政府は需給量をコントロールできる。同様に、中央銀行ベースマネーの供給については受動的に対応するだけだとしても、金利という価格面から貨幣供給をコントロールすることはできるのだ、と彼は強調している。

*1:先月末のエントリで、David Glasnerのバーナンキ批判に絡めて「Glasnerは、預金準備率が預金の上限を決めることまでを否定しているわけではないように思う」と書いたが、今回のエントリを読むと、[4/14追記:現在の金融システムに関する限りは]その解釈は間違っていたようである。ここにお詫びして訂正する。

*2:それに対し、コメント欄でスコット・フルワイラーが姿を見せ、そのことは百も承知で、実際に自エントリではその点にも触れている、と反論している。