Nick Roweの植田裁定

2年半ほど前中央銀行の貨幣供給コントロール能力を巡るMMTer*1とサムナーの論争を、昔懐かし翁−岩田論争に喩えたことがあったが、同様の論争が今度はポストケインジアンクルーグマンの間で再燃した。以下はその一連のブログエントリ。


ここで

  • 「〜 - NYTimes.com」=クルーグマン
  • 「〜 | Steve Keen's Debtwatch」=論争相手のスティーブ・キーン
  • 「〜 - New Economic PerspectivesNew Economic Perspectives」=スコット・フルワイラー

のエントリである。
フルワイラーは前述のサムナーとの論争時の一方の主役であり、代表的なMMTerであるが、今回はどちらかというと一度口を挟んだだけの脇役に回っている。それに代わって今回主役を務めたのがキーンであるが、彼はポスト・ケインジアンではあるものの、その中のミンスキー派であり、MMTerとは言えないかもしれない*2。ただ、中央銀行の貨幣供給コントロール能力に否定的なところは、MMTerと同様であり、その否定ロジックは、概ね以下のようになる*3

教科書的な貨幣乗数の概念は、金本位制時代の話であり、実は現代の金融制度には当てはまらない。たとえば準備預金で許容される以上に貸し出しを行なった場合でも、自動的に中央銀行から準備預金に当座借越がペナルティ金利付きで供与される。銀行は他の銀行からの借り入れや、FRBへのオーバーナイト借り入れ担保の差し出しによって、それを清算すれば良い。つまり、現代の所要準備制度というのは、貸し出しにコストを課すが、もはや制約を課すものではない。従って、銀行の貸出能力は、もはや準備預金の残高とは関係なくなっている。


なお、かつての翁−岩田論争において、長期と短期の区別を強調して論争の裁定を行ったのが植田和男氏である。「金融政策の論点―検証・ゼロ金利政策」に再録された同氏の論文から引用すると、

中央銀行ベースマネーをコントロールできないのだろうか。正しい答えは、日々の単位ではある程度できる。一ヵ月の平均から数ヵ月程度ではかなりむずかしい。一、二年程度の長期になれば、大きな誤差を伴いつつも強い影響を与えることができるというものである。


そして今回の論争において、カナダの金融政策を例に取り、植田氏と同様に長期と短期の区別を強調した「裁定」を行ったのがNick Roweである(ここここ;その前段のエントリはここ)。
曰く、確かに金融政策に関する声明発表の間の期間(カナダの場合は6週間)においては金利は固定的であり、中央銀行はその金利における資金需要に受動的に応じているだけかもしれない。即ち、金利−貨幣供給の平面において貨幣供給は所与の金利における水平線となり、金利に関して無限の弾力性を持つ。
しかし、6週間を超える中期においては、インフレ目標が貨幣供給の決定要因となる。そのタイムスケールでは貨幣供給はもはや金利や所得に対して完全に非弾力的となり、インフレ率に対して無限の(負の)弾力性を持つ。即ち、先ほどの金利−貨幣供給の平面で縦軸を金利からインフレ率に置き換えた平面での水平線となる。


植田氏の裁定と今回のRoweの裁定は20年間の時を隔てているわけだが、短期についての考察はほぼ同様であるものの、長期についての考察がその間の金融政策技術の発達(ただしカナダにおいての*4)を反映したものになっているのが興味深い。

*1:当時はこの呼び方は無かったが。

*2:cf. Wikipedia

*3:ここでは、2年半前のエントリでフルワイラーの主張を小生なりにまとめたものを再録した。

*4:4/2エントリでRoweは「Americans might be forgiven for thinking that monetary policy is just one damn interest rate after another, because nobody understands what the Fed is trying to do at any longer horizon.」とFRBを皮肉っている。