アリゾナ銃撃事件とトロッコ問題

先月8日に発生したアリゾナの銃乱射事件に絡んで、Modeled BehaviorのKarl Smithが挑発的なことを書いていた。要約すると以下の通り。

  • 過激な言辞が国民皆保険を成立させる可能性を増すと同時に、今回のような無差別殺人事件を引き起こす可能性も増すものとしよう。そして、一回の無差別殺人事件では平均6人の人が殺されるものとしよう。その場合、その過激な言辞によって国民皆保険を実現する確率が6/22,000=1/3667以上高まるならば、その言辞はトータルで見て人々の生命を救ったと言えるのではないか。


このエントリは銃撃事件の3日後に書かれたものだが、最近ふとこれを思い出したのは、小飼弾氏の1/26エントリを目にしたためである。両者に共通するのは、誰かを犠牲にして誰かを救おう、という発想であり、その意味では近年話題のマイケル・サンデルトロッコ問題とも共通していると言える。ただ、Smithとトロッコ問題が犠牲にする人数の多寡のみを比較しているのに対し、小飼氏が老人か子供かというお得意の世代間戦争に持ち込んでいる点は違うと言える。また、トロッコ問題では確実な状況を前提としているのに対し、Smithと小飼氏の議論は前提自体に疑問符が付くであろうという点も大きな違いと言える。


さらに小生が連想したのは、原爆の犠牲によって、本土決戦が実現した場合に想定される多くの犠牲者が救われた、という議論である。これは前提に疑問符が付くであろう上に、表向きは人数の多寡を問題にしているものの(「原爆によって百万人の米兵と何百万人もの日本人が救われた」)、我々日本人からすると、暗黙のうちに米兵と日本の一般市民の人命を計りに掛けているような居心地の悪さを感じる主張である。その意味で、上記の議論の問題点をすべて包含した議論と言えるかもしれない。