退屈な中銀のテーゼ

カナダ銀行が来年インフレ目標の枠組みを見直すのに伴い、ワークショップを開いたという。WCIブログのNick Roweがその報告を4つの質問という形で簡単にまとめている


その4つの質問とは以下の通り。

  1. 金融政策は、たとえ一時的にインフレ目標から離れることになっても、金融市場の不安定化を未然に防ぐ措置を講じるべきか?
  2. カナダ銀行インフレ目標から物価水準目標に切り替えるべきか?
  3. インフレ目標は2%より低くすべきか?
  4. 直近のカナダの景気後退を防ぐないし影響を最小限に留めるために、未来を見通す水晶玉の有無に関わらず、カナダ銀行が取り得る別の手段があったか?

最初の3つの質問はワークショップで実際に投げ掛けられた質問であり、最後の4つ目の質問はRoweが独自に抱いた疑問だという。


最初の3つの質問についてワークショップできっちりとした結論が出ることは無かった、とRoweは以下のようにその様子を報告している。

What was suprising about the workshop was that the average degree of individual uncertainty seemed to be nearly as large as the degree of collective uncertainty. Normally, each individual economist thinks he knows the answer. It's only when you listen to all of them give different answers you realise they can't all know the answer. It was a remarkably sane workshop. We all know we don't know the answers. We agree on the pros and cons. We are all just weighing the pros and cons as best we can, but none of us knows which weighs more.
(拙訳)
ワークショップで驚いたことは、各人の平均的な確信の無さが、全体としての確信の無さと同じくらい高かった、ということだった。いつもならば、各経済学者は自分は答えを知っている、と考えている。全員の話に耳を傾け、言っていることがばらばらなことに気付いた段階で初めて、皆が答えを知っているわけではないことが分かる。今回は驚くほどまともなワークショップだった。皆が答えを知らないということを全員が分かっていた。それぞれの賛成論や反対論についての皆の意見は一致していた。賛成論や反対論の優先順位を定めようと皆は最善を尽くしていたが、どれを優先すべきか分かった者は一人もいなかった。


それでも取りあえず出された回答は以下の通りとのこと。


●質問1への回答
おそらくそうすべき。しかし例えば住宅市場でバブルが生じ、それに対処したいと考える場合には、頭金の最低額を引き上げる方が金融引き締め策よりもツールとしてはるかに優れていると言える。ただ、カナダ銀行がバブルを未然に防ぐ手段を行使する権利は、他の手段が何らかの理由で使えない場合に備え、確保しておくべき。(本来は連邦政府が音頭を取って関係各局を集め、マクロプルーデンシャルのツールの体系を整備する、ということを今すぐにでもやるべきなのだが。)


●質問2と3へのまとめの回答

  • インフレ目標を下げることへの本当に内容のある反論は、名目金利がゼロに達する確率が上昇することへの懸念である。3年前はそれはただの可能性に過ぎなかったが、周知の通り今やそれは現実味を帯びている。
  • 物価水準目標は、ゼロ金利制約を回避ないしそこから抜け出し易くする安定的な予想をもたらす。従って、インフレ目標を2%より下げるのであれば、同時に物価水準目標に移行すべき。
  • 物価水準目標の最大の問題点は、その便益が人々の政策理解に依存している点。もし人々がインフレ目標と物価水準目標の違いを理解しなければ、予想の安定化効果は得られず、長期的な物価水準の不確実性を削減することができない。学生に物価水準の変化とインフレ率の変化の違いを教えることの難しさ、およびマスコミがしばしば両者を混同することを考えると、必要な政策理解を得る点について、Rowe個人としては楽観的になれない。
  • カナダ銀行は20年掛けて現行のインフレ目標の枠組みを人々に理解させてきた。それでも国民が皆理解したかどうかは怪しい。人々に理解し易い物価水準目標は、0%インフレに対応するものだけだろう。
  • (コメント欄でのStephen Gordonの補足)大きな政策変更を正当化するのがとりわけ難しいのは、インフレ目標が20年前には誰も想像しなかったほどの大成功を収めたことにある。誰かが言ったように、「今や我々には失うものがある」のだ。1990年当時は、我々には失うものは無かった。
  • (コメント欄でのRoweの補足)誰かがワークショップで指摘したように、インフレ目標は「理論に先んじた政策(policy ahead of theory)」だった。中銀のインフレ目標開始がまずあって、それがうまく機能する理由を説明する理論は後からできた。もし政策をさらから組み立てるならば、現行の2%のインフレ目標は選択されないかもしれない。しかし、我々はゼロから始めるわけではない。しかも、多くの人々が既に2%のインフレ目標を前提に物事の計画を立てている。今やそれは擬似憲法になっているのだ。

この最後の指摘は日本(や米国)にとって示唆的である。この指摘を敷衍すると、日本がインフレ目標を導入するならば、その枠組みは事実上さらから作らねばならないので、物価水準目標も十分に検討対象に値する、ということになる。
ただ、その前に指摘されているように、物価水準目標は一般の人々には分かり難く、政策の効きに必要な人々の予想形成が得られにくい、という問題がある。そう考えると、やはりインフレ目標の方が良いような気もするが、それがデフレ下で効果を発揮するのは、あくまでも人々の予想形成が既に確立している場合である、という問題がもう一方に存在する。良く指摘される通り、インフレ目標は本来はインフレ下で効果を発揮することが目的とされているためである。喩えるならば、火事の場合に備えて防火水槽に常に一定速度の流水を通していたところ、寒波の襲来の際にそれが図らずも凍結防止の役割を果たした、というのがカナダなどでインフレ目標が果たした役割ということになろう。それに対し、防火水槽の性能に自信があったために特にそうした循環を行っていなかったところ、寒波の襲来で水槽が凍結してしまったが、今さら水を流そうとしても水槽水が凍っているために流れないし、無理に熱水ないし高速度の水を流そうとすると水槽が破損して火事の際に役に立たなくなる(もしくはショートなどでそれ自体出火を引き起こす)危険性がある、というのが日本などの状況かと思われる。


また、自らが投げ掛けた質問4についてRoweは、以下のように論じている。

  • 確かに患者は死ななかったが、しばらくの間は重症であったし、今も回復途上にある。従って何らかの事後分析が有益だろう。
  • Chatham House rulesにより発言者は伏せるが)ワークショップで指摘されたように「カナダは孤島では無い」し、カナダ銀行が世界全体の不況を防げるはずも無い。だが、世界不況がカナダに波及するのが必然だったかどうかは自明では無い。例え世界不況がカナダの総需要の低下を招いたとしても、カナダ銀行がそれを相殺する金融緩和ができなかった理由はあったのか? 変動相場制と独立した金融政策を保持しているメリットは、まさにそうした相殺を実施できる点にあるのではないか? 実際に実施された政策は、完全予想の仮定下でも最善のものだったのか? そしそうならば、なぜそう言えるのか? もしそうでないならば、例え完全予想の仮定を置かなくてもカナダ銀行が違った手段を取り得た別の金融政策の枠組みがあったのだろうか?


なお、以上のような質問が挙げられたものの、全体としてワークショップは退屈なものだった、とRoweは評している。

We all agreed the workshop was rather boring. The hosts (correctly) took this as a compliment.
(拙訳)
ワークショップがちょっと退屈だったことについては皆同意した。主催者は(正しくも)それを賛辞と受け止めた。

この感想は、以前紹介した退屈な中央銀行への賛歌の延長線上にあると言える。



(余談)
個人的にこのエントリで最も驚いたのは、Stephen Gordonの以下のコメントだった。

I might also add that it was great to finally meet Nick. But the experience was a bit jarring: now when I read his posts and comments, it's with his speaking voice.

何とWCIブログの共同ブロガーの2人は、これまで顔を合わせたことが無かったとのことである*1

これにNick Roweは次のように応じている。

Yep. It was great to finally meet Stephen! After all these years! Like "pen pals", in the olden days. (And Stephen has been working in French so long he almost has a French accent, though not anywhere as strong as my English (UK) accent!)

また、今年3月にWCIブログに加わったMike Moffattは次のようにコメントしている。

That's why I refuse to meet any of you - I sound like Charles Nelson Reilly.
Thanks for the report from Ottawa!

*1:ちなみにGordonがWCIブログを創設したのは5年前で、Roweが参加したのは2年前との