ブログとレフェリー

例のリッチモンド連銀騒動の際、多くのブロガーが、ブログと経済学の関係について様々な意見を述べた。そうした各人各様の豊穣な考察を文章の形で引き出したという意味では、Kartik Athreyaは、本来の意図に反してむしろ経済ブロゴスフィアに大いに貢献したと言えるかもしれない。


その中で小生が面白いと思ったものの一つが、Rajiv Sethiのエントリ。そこで彼は、以前書いたことの再説として以下のように述べている。

The community of academic economists is increasingly coming to be judged not simply by peer reviewers at journals or by carefully screened and selected cohorts of students, but by a global audience of curious individuals spanning multiple disciplines and specializations. Voices that have long been silenced in mainstream journals now insist on being heard on an equal footing. Arguments on blogs seem to be judged largely on their merits, independently of the professional stature of those making them. This has allowed economists in far-flung places with heavy teaching loads, or those who pursued non-academic career paths, to join debates. Even anonymous writers and autodidacts can wield considerable influence in this environment, and a number of genuinely interdisciplinary blogs have emerged...
This has got to be a healthy development. One might persuade a referee or seminar audience that a particular assumption is justified simply because there is a large literature that builds on it, or that tractability concerns preclude reasonable alternatives. But this broader audience is not so easy to convince. Persuading a multitude of informed, thoughtful, intelligent readers of the relevance and validity of one's arguments using words rather than formal models is a far more challenging task than persuading one's own students or peers. If one can separate the wheat from the chaff, the reasoned argument from the noise, this process should result in a more dynamic and robust discipline in the long run.
(拙訳)
学界の経済学者のコミュニティは、学術誌の同僚のレビュアーや、注意深く選抜された学生の一団によって評価されるだけでは段々済まなくなりつつある。世界中の様々な専門分野の好奇心の強い個人の評価も受けるようになっているのだ。長いこと主要な学術誌では無視されてきた声が、今や対等な立場で耳を貸すように求めている。ブログ上での意見は、その意見自体の価値によって判断されることが多く、主張者の肩書きはあまり関係無いようである。このことは、学界の中心から見れば周縁部に属する授業担当を主とする経済学者や、学界の外にキャリアを求めた人たちが議論に参加できることを意味する。こうした状況では、匿名の書き手や独学者でさえ大きな影響力を持つことができる。純粋に学際的なブログも数多く出現した。・・・
これは間違いなく健全な発展である。学会誌のレフェリーやセミナーの聴衆ならば、ある種の仮定の正当性を、それに基づいた数多くの文献があるとか、他の合理的な仮定では展開が技術的に難しいとかいった理由で納得させることができるかもしれない。しかし、こうした広範囲に亘る聴衆を納得させることは、それほど容易くない。知識に通じ、思慮深く、知的な多くの読者に、正式なモデルではなく言葉を用いて自らの主張の妥当性と正当性を納得させることは、学生や同僚を納得させることに比べると、はるかに困難な作業である。玉と石を選り分け、ノイズの中から合理的な意見を拾い上げることができれば、そうしたプロセスによって、長期的にはよりダイナミックで強固な学問が生み出されるに違いない。


さらに今回は、以下のようなことも付け加えている。

In fact, the refereeing process for blog posts is in some respects more rigorous than that for journal articles. Reports are numerous, non-anonymous, public, rapidly and efficiently produced, and collaboratively constructed. It is not obvious to me that this process of evaluation is any less legitimate than that for journal submissions, which rely on feedback from two or three anonymous referees who are themselves invested in the same techniques and research agenda as the author.
I suspect that within a decade, blogs will be a cornerstone of research in economics. Many original and creative contributions to the discipline will first be communicated to the profession (and the world at large) in the form of blog posts, since the medium allows for material of arbitrary length, depth and complexity. Ideas first expressed in this form will make their way (with suitable attribution) into reading lists, doctoral dissertations and more conventionally refereed academic publications. And blogs will come to play a central role in the process of recruitment, promotion and reward at major research universities. This genie is not going back into its bottle.
(拙訳)
実際、ブログにおけるレフェリーのプロセスは、ある点において学術誌におけるよりも厳密である。ブログのレフェリー・レポートは、数が多く、書き手の素姓が明らかで、公開されており、迅速かつ効率的に作成され、しかも協同作業で作成される。こうした評価プロセスが、学術誌におけるものに比べて正当性の点で劣るということは、私にとっては自明ではない。学術誌での投稿論文の評価は2、3人の匿名のレフェリーによってなされるが、彼らも技法や研究テーマという点では著者と同じ利害関係を有しているのだ。
十年以内にブログが経済学の研究において不可欠なものになっているのではないか、と私は思う。多くの経済学に対する独創的な貢献は、まずブログポストという形で学界(および世界)に対して通知されるようになるのではないか。何といっても、ブログでは字数や難解さや複雑さに対する制約はないのだから。まずそうした形で表明されたアイディアは、(著作権は保持されたまま)文献リストに載り、博士論文になったり、従来のレフェリー付きの学術誌に掲載されたりする、という経路を辿ることになるだろう。そして、主要な研究大学では、採用や昇進や報酬に関してブログが中心的な役割を担うようになるだろう。もう魔神は壜には戻らないのだ。

[7/16追記]
コメント欄でのやり取りから以下のエピソードを思い出したので、追記しておく。

いったい、なぜファインマンは、以前には試みたことのない初級物理の教育に2年もの間、彼のすばらしいエネルギーをすべて注ぎ込まねばならないような仕事を引き受けたのであろうか。私の推測では、その主要な理由は3つある。・・・第3の理由は、おそらくこれが1番重要だと思われるが、彼が理解しているところにしたがって、従来の物理を再構成する仕事に真っ向から挑戦したかった、そして、それを若い学生に向けて提示したかった、ということである。これこそが彼の特質というべきものであった。事実、彼が物事を判断するさいの基準は、それが真に理解できているかどうか、ということであった。あるとき私は彼に、なぜスピン−1/2粒子がフェルミディラック統計に従うのか私にも理解できるように説明してほしい、といったことがある。彼は自分の聴衆を完璧に推し量ってからこういった。「1年生に講義するつもりで準備しみよう」と。しかし彼は数日後、彼は私のところにやってきていった、「ねえ、あれはできなかったよ、あれを1年生のレベルにまで砕いて説明することはできなかった。ということは、私たちはあれをまだ本当には理解していない、ということなんだ」と。
(デイヴィッド・グッドステイン「教師ファインマン」[パリティ1989/10号]より)

ファインマンが今生きていたら、おそらくブログでそうした説明を提示することに挑戦していたのではないか。そして、それによって、物理学の専門外の人たちのみならず専門家の人たちも大きな恩恵を受けたことだろう。