レーガノミックスは経済成長をもたらしたか?

サムナーとクルーグマンレーガン時代の改革を巡って軽く火花を散らした。両者の言い分を簡単にまとめると以下の通り。

クルーグマン([http
//krugman.blogs.nytimes.com/2010/05/23/the-bestest-generation/:title=5/23補足]):レーガン政権時代に新自由主義的な構造改革が実施されるまでは、ニューディール期に導入された規制によって経済に足枷が嵌められていた状態だった、と右派の人々は言う。しかし、家計所得の中位値を見てみると、むしろ戦後からレーガン政権誕生前までは生活水準の向上が見られ、レーガン政権以降は停滞していることが分かる。
サムナー
でもレーガン期以降の米国の経済パフォーマンスは、世界の他の国よりも良かったよ。
あと、1973年以降の成長率低下については、技術革新の問題が与って大きかったと思う。たとえば1927年にリンドバーグが大西洋を横断した飛行機は小さくて原始的なものだったが、1969年にはボーイングの747が誕生した。それから41年経ったけど、商業用飛行機は747より大して進歩していない。飛行機以外にも似た事例はたくさんある。18〜19世紀の様々な発明が、1920-70年の間の経済成長を生み出したんだ。それに匹敵するような技術革新は当分起こりそうもない――コンピュータ、バイオ、ナノが次の技術革新の波と言われているけど、そこまで大きなものにはならないだろうね。
クルーグマン
サムナーの反論はポイントがずれている。僕が言っているのは、強力な組合、高い最低賃金、高い最高限界税率といったものがあっても、高水準の経済成長が成し遂げられた、ということなんだ。右派の連中はそういったものが経済成長には致命的だと主張するが、そのドグマは誤りだと証明したのが先の僕のブログエントリの主旨だ。
サムナー
しかし1945-73年の期間には、ソ連も生活水準を大きく向上させた。ということは、過去の経済成長の記録は、そのシステムがその後の経済成長にとって致命的な問題を抱えていることの反証にはならないわけだ。米国の戦後システムはソ連より遥かにましだったが、長期的成長に有害な要素をやはり抱えていた。


このサムナーとのクルーグマンのやり取りには、デロングやAngry Bearのブロガーも参戦し、それに対しサムナーも――クルーグマンを批判すると何でこうゾンビ映画のように次から次に攻撃者が現われるのだ、とぼやきながら――逐一反論している(ここここここ)。
またサムナーは、クルーグマンを批判しようとしても、彼は、そんなことは言っていない、と鰻のようにするりと逃げてしまう――そして結局、彼が、たとえば物価水準目標をどう思っているのか、あるいは新自由主義的経済改革をどう思っているのか分からず仕舞いだ、ともぼやいている


確かにサムナーが指摘する通り、クルーグマンの独特な分かりにくさは、米国のみならず日本のエコノブロゴスフィアにもこれまで少なからぬ混乱をもたらしてきた気がする。



あとこの2人のやり取りを見て小生が感じたのは、米経済学界の右派と左派の対立は、やはり基本的にはニューディール後の体制を巡るものなのだな、ということ。リフレ政策を巡って右派と左派が火花を散らしたとしても、それは政治的な実現可能性や財政乗数効果の実証面に関してであり、経済理論という面での対立は実はあまり無い(そのことは、タイラー・コーエンの昨日のブログポストや、それに対するサムナーNick Roweの反応に良く現われている*1)。米国でリフレ政策を完全に否定するのは、そもそもFRBなぞ廃止してしまえという極端なリバタリアンや、それに近い人々に限られるだろう。


一方、日本の経済学界では、逆に、リフレ派と反リフレ派がここ十年以上熾烈な論争を繰り広げてきた半面、日本経済の構造改革の必要性や市場主義の重視という点に関しては実は両派の差はそれほど無いように思われる。反リフレ派は、リフレ政策を構造改革を阻害するものとして攻撃するが、リフレ派には、むしろ構造改革の前提条件を整えるものとしてリフレ政策を推進する人が多いように思う*2クルーグマンのように高い最低賃金や強力な労働組合や高水準の最高税率に郷愁を感じる人は、いわゆるリフレ派の中にはあまりおらず、むしろマル経の流れを汲む人に多いのではないだろうか。


両国の経済学論争でこうした位相差が生じている理由は様々あるだろうが、やはり日本では90年以降の経済停滞があまりにも長く続き過ぎたことが一つの大きな原因としてあるように思う。おそらく当初は皆バブル崩壊に伴って生じた需要不足という見方で概ね一致していたのだろうが、不況が長引くにつれ「いや待てよ、これだけ長引くならば単なる一時的な需要不足の問題ではないだろう、もっと根本的な構造問題なのではないか」という見方が広まっていったのではないか。そして遂には、従来の経済学における需要喚起策をむしろ有害無益であるとして捨て去り、日本独自の経済構造の指弾にのみ焦点を合わせる、という見解が力を得ていったのであろう。


そう考えると、米国の経済学界でも、現在の景気低迷が長引けば、ひょっとすると日本と似たような構図が現われるかもしれない。既にアーノルド・クリングの再計算理論などにその萌芽は見られる。願わくば、そうした状況が生じる前に米国の景気が回復してほしいものだが…。


あるいは、日本で景気回復が進めば、リフレ派対反リフレ派の論争は影を潜め、労働政策や所得再配分政策に関する論争が前面に出てくるのかもしれない。願わくば、早いところそうした状況を目撃する贅沢に浴したいものだが…。

*1:ちなみにコーエンのエントリは、マシュー・イグレシアスの5/30ブログポストを受けたものであり、そのイグレシアスのエントリはデロングのコチャラコタ批判エントリを受けたものである。

*2:米国で日本のリフレ派に最も主張が近いサムナーも、上記の論争に見られるように構造改革論者という顔を併せ持っており、日本の問題はやはり構造問題、ということを最近時々言っている(cf. 上記論争の5/23エントリや、この4/3エントリ)。