日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日?

日本の現在の債務状況から、現状のデフレがいずれインフレに転化するという議論がある(というか、その見方は世間で大勢を占めていると言って良いだろう)。問題は、そのインフレへの転化がある程度制御された形で起き得るのか、それともその転化を制御することは不可能で、短時間で一気にハイパーインフレまで行ってしまうのか、という点であり、世の中ではそこで意見が分かれて白熱した議論が闘わされているようだ。


ただ、そこで用いられるハイパーインフレという言葉は、ただ単に非常に高いインフレという意味で使われている場合が多いように思われる。しかし、経済学上は、ハイパーインフレというのはあくまでもインフレが発散していく状況を指し、インフレが定常状態にあれば、それが如何に高い水準にあろうとも、ハイパーインフレとは呼ばない。
経済学上で定義されるハイパーインフレが起きるのは、経済の提供可能な水準を超えて政府がシニョリッジを求める時である。その場合、貨幣をいくら刷って名目貨幣残高を増やしても、インフレで実質貨幣残高が減少するので、政府は目的としたシニョリッジを確保することができない。それでますます貨幣を刷ってシニョリッジを確保しようとするが、その結果インフレが一層昂進して実質貨幣残高が減少し…、という悪循環に陥ることになる。これがローマークルーグマンの教科書に書かれている標準的なハイパーインフレの説明である。
一方、シニョリッジが経済の提供可能な範囲内に留まるならば、そうした悪循環に陥ることなく、政府は高インフレによるシニョリッジを享受することができる。その場合のインフレ率とシニョリッジの関係は、(インフレ=シニョリッジ版の)ラッファー曲線で表され、シニョリッジを最大化するインフレ率のポイントがあるとされる。そのインフレ率まではインフレが高まるほどシニョリッジが拡大するが、そこを超えるとむしろシニョリッジが低下していくというポイントである。


以上のハイパーインフレ、および高インフレの経済学上の定義を踏まえるならば、インフレを巡る論議

という点が焦点になるはずである。しかし実際には、その辺りに関する論争はあまり見掛けない。
確かに、インフレ率がどこまで行くかは政府がシニョリッジをどこまで求めるかに依存するので、経済学的な考察だけでは決定できない。たとえば現在のGDPの2倍になんなんとする債務をすべてインフレで解消しようとしたら、一挙にハイパーインフレが現実化するのは避けられないだろう。しかし、如何に愚かな政府と言えども、最初からそこまで馬鹿な行動を取るとは考えにくい。では、ハイパーインフレは最終的には避けられるのだろうか? それとも、やはりハイパーインフレは不可避で、具体的にどのような経路を辿るかの問題になるのだろうか? こうした論点については、観念論だけでは水掛け論に終わりやすいので、実際の事例を参照するのが一番良いように思われる。


下図は、実際に1980年代末にハイパーインフレを経験したアルゼンチンについて描かれたラッファー曲線である(Miguel A Kiguel, Pablo Andres Neumeyer「Seigniorage and Inflation: The Case of Argentina」より)。

この論文では、1979-1989年の月次データを分析対象にしているが、決して一夜にして通常状態からハイパーインフレに陥ったわけではなく、10年間ラッファー曲線の上を行きつ戻りつした後に、遂にハイパーインフレに陥ったことが示されている*1


この論文では、その10年間を以下の2つの期に分けている。

  1. 1979.1〜1981.1(tablita期)
    • tablitaと呼ばれた予めスケジューリングされた段階的な通貨切り下げを実施。資本移動は自由化されており、金利はtablitaを織り込んだ金利平価で決まっていた。通貨供給も基本的にマンデル=フレミング・モデルで内生的に決まっていた。
  2. 1981.2〜1989.12
    • 資本移動に規制が課された。

その上で、第2期をさらに以下の4期に分類している。

  1. 1981.2〜1982.6
    • 金利や為替の頻繁な規制変更によって不安定な金融状況がもたらされた。
  2. 1982.7〜1985.3(pre-Austral期)
    • 金融機関の状況は安定化したが、マクロ経済は全般に不安定だった。金利には規制が課せられ、為替は二重相場となった。
  3. 1985.4〜1988.12(post-Austral期)
    • 状況は前期とそれほど変わらないが、1985.3の金融改革で金利は自由化された。1985.6には、インフレ抑制のためアウストラルが導入された。
  4. 1989.1〜1989.12


論文のケーガンの貨幣需要関数の推計によると、tablita期とpost-Austral期のシニョリッジを最大化するインフレ率は20%、pre-Austral期では30%だったという(いずれも月率)。また、その結果得られたシニョリッジはGDPのおよそ7%だったとのことである。
また、論文によると、1978-81年の平均インフレ率は月7%だった。これは世界的に見れば非常に高い水準だったが、その時期のシニョリッジは維持可能なものであり、ハイパーインフレの恐れは無かった。それに対し、1982-84年の時期はシニョリッジが7%を超え、ハイパーインフレの恐れが高まった。実際、1983年にインフレ率は倍増し、その翌年の1984年にはさらに倍増している。1985年のアウストラル導入は、ハイパーインフレ防止のためだった。しかし、1989年にはシニョリッジが再び限界を超えて9%に達し、遂にハイパーインフレが発生した。
なお、論文では期間ごとの平均インフレ率やシニョリッジの表も示しているので、以下に転記しておく。

1979-80 1982-84 1986-87
財政赤字 7.0 14.6 5.9
純借入 5.4 4.6 5.9
シニョリッジ 5.2 7.8 3.7
インフレ(年率平均) 128.3 340.4 109.7

インフレ率を除き対GDP比。財政赤字=国内借り入れ+中銀の対財務省借款


このように、高インフレが恒常化していた1970〜80年代のアルゼンチンでも、ハイパーインフレは最後の最後に起きた事象であったことが分かる。しかも、その時期はフォークランド紛争や民政移管など、政治・社会的にも激動と混乱の時代であった。
日本のハイパーインフレに関する論議では、ガスの充満した部屋で火をつけたら爆発する、とか、冷蔵庫を傾けたらある段階を超えると一気に倒れる、といった比喩が蔓延しているが、こうした研究に照らしてみると、そうした比喩は余りにも粗雑でちょっと議論に堪えられないもののように思われる。


なお、アルゼンチンのハイパーインフレは、1992年のドルペッグ制採用により終結し、その後は「ラプラタの奇跡」と称される経済成長が達成された(cf. JICAレポート)。しかし周知の通り、今世紀に入ってそのペッグ制も行き詰まり、2001年にはデフォルトを引き起こした。そして、2002年には変動相場制に移行し、(前述のJICAレポートによると)同年末にはインフレ率が40%を超えた。その後は通貨安による輸出増加によって経済は持ち直し、現在に至っている。しかし、現政権は、一度デフォルトした対外債務を債務スワップで返済する計画を立てる一方で、そのために中央銀行の外貨準備に手を付けるというポピュリスト的な動きも見せており、その行方は依然として予断を許さない。また、インフレ率は一桁になっているというものの、それは政府が経済統計を操作しているためで、実際は20%くらいあるのではないか、という声もある(cf. 前述の三菱UFJレポート)。さらに、財政支出抑制が不十分という指摘もあるので、実はまたもやハイパーインフレへの道を歩んでいるのではないか、という懸念は拭いきれない。


以上のアルゼンチンの事例から、何が言えるだろうか? まず、ハイパーインフレというのはやはり極端な現象であり、経済学上の厳密な定義で使うのであれば、日本で直ちに発生することは考えにくい、ということである。では、70〜80年代のアルゼンチンのように、インフレ率が年率100%に達するだろうか? それもあり得なくはないが、現在の日本の政治社会情勢が、当時のアルゼンチンと同じくらい混乱していると考えるのも、前提としてはやや行き過ぎのような気がする。そうなると、上昇してもせいぜい数十%程度ではないか、といった辺りが妥当な推測のように思われる。
もちろん、数十%のインフレ率でも、経済への悪影響は計り知れないほど大きい。だがそれも、2000年代のアルゼンチンをベースに推測した話であり、もし政府がそれよりは規律ある財政政策を行なうと国民が信じれば、インフレ率をもっと低く抑えることが可能だろう。とは言え、今の日本の政治状況を考えれば、そこまで信頼性を高めるのは困難かもしれない、というのももう一方の悲しい現実ではあるが…。

*1:実際のインフレ率の推移は、こちらの論文[=Fernando E. Alvarez, Stephen P. Zeldes「Reducing Inflation in Argentina: Mission Impossible?」]のp.16-17の図や、三菱UFJコンサルティング&リサーチの昨年1/19レポートの図表5が分かりやすい。