日本の鏡像としてのカナダ・再説

以前、WCIブログのStephen Gordonのエントリを取り上げ、そこでのカナダ経済の分析を日本の鏡像として捉えたことがあったが(ここここ)、Gordonの12/9エントリのカナダ経済に関する分析が、また日本と取らし合わせて考えると興味深いものになっている。


彼の主張は以下の輸出と輸入に対する見方に集約されている。

Imports are benefits
We engage in international trade to get things more cheaply than it would cost to make it ourselves.
Exports are costs
We send exports to foreigners so that they will give us the imports we want.

(拙訳)

輸入は利益である
我々が国際貿易を行なうのは、自分たちで作るよりも安上がりに品物を手に入れるためである。
輸出は費用である
我々が外国に輸出品を送るのは、彼らに我々の欲する輸入品を提供してもらうためである。

これは、まさにクルーグマンがPop internationalism(邦訳は良い経済学 悪い経済学 (日経ビジネス人文庫))に収録された小論で書き、少し前にEconlogのデビッド・ヘンダーソン称賛した以下の文章と同じ考え方である*1

An international economics course should drive home to students the point that international trade is not about competition, it is about mutually beneficial exchange. Even more fundamentally, we should be able to teach students that imports, not exports, are the purpose of trade. That is, what a country gains from trade is the ability to import what it wants. Exports are not an objective in and of themselves: the need to export is a burden that the country must bear because its import suppliers are crass enough to demand payment.
(前述邦訳本より引用)
経済学入門では、貿易とは競争ではなく、相互に利益をもたらす交換であることを学生に納得させるべきである。もっと基本的な点として、輸出ではなく、輸入が貿易の目的であることを教えるべきである。国が貿易によって得るのは、求めるものを輸入する能力である。輸出はそれ自体が目的ではない。輸出の必要は国にとって負担である。輸入しようとすると売り手に抜け目なく代金を要求されるので、輸出しないわけにはいかない。


Gordonはその上で、90年代以降のカナダの状況を以下のように分析している。

In the early 1990's, commodity prices fell, and the only way for us to obtain the imports we wanted was to shift workers to the manufacturing sector, and to increase the value-added of exports. But devoting more of our productive capacity to making things that are to be consumed by foreigners isn't a path to prosperity, and workers' real buying power stagnated.


In 2002, commodity prices rose, and we were able to get the imports we wanted with fewer productive resources allocated to the export sector. The expansion of 2002-2008 was characterised by a shift out of export-oriented manufacturing, and these workers were able to produce more for domestic consumption. Exports stagnated, but real incomes increased.
(拙訳)
1990年代初め、商品価格が下落したため、我々が必要な輸入品を入手する手段は、労働者を製造業部門にシフトさせ、付加価値商品の輸出を増やすことしかなかった。しかし、我々の生産能力を外国人が消費する物品を製造することにより多く費やすことは、繁栄への道ではなく、労働者の実質購買能力は停滞した。


2002年、商品価格は上昇し、我々は輸出部門に振り向ける生産資源を減らしても必要な輸入品を入手できるようになった。2002-2008年の経済成長は、輸出向け製造業からの流出が特徴となっており、それらの労働者によって国内消費のための生産を増やせるようになった。輸出は停滞したが、実質所得は増加した。


この裏返しとして日本を考えれば、商品価格が下落した1990年代は、本来は日本に取って良い時代だったはずである。より少ない輸出で輸入品を手に入れられるようになったため、より多くの生産資源を国内向けに振り向けられたはずだからである。
ただ、日本の不幸は、その増大した国内向け生産能力に見合った国内需要が無かったことにあった。そのため、典型的な需要不足による不況、そして流動性の罠へと滑り落ちていった。


一方、2002年以降の商品価格の上昇は、以前と同じ輸入をするためにもっと多く輸出するべきことを意味した。これは、Gordonが指摘するカナダの状況とは逆で、交易条件の悪化による実質所得への悪影響を意味する。ところが、皮肉なことに、これによって需要不足が(完全ではないかもしれなかったが)解消に向かい、日本は景気回復した。


そう考えると、ある程度の資源価格の上昇は、むしろ日本の過剰な生産能力を抑える上で良いこと、という逆説的な見方ができるかもしれない。言ってしまえば、そうした価格上昇はフォレスト・ガンプの足の矯正機(あるいはミュンヒハウゼン男爵の部下の韋駄天男の鉛の足枷)のような役割を果たしていて、それを外すと生産能力が走りすぎて需要が追いつかなってしまう、というわけだ。


参考までに、以前のエントリで示した輸出、輸入、純輸出の対GDP比のグラフに、日銀サイトで取得した円ベースの輸入物価指数(期末ベースで期種を年度に変換)を足したもの(かつ期間を2008年度まで伸ばしたもの)を以下に示しておく。


*1:ちなみに輸出と輸入と外需については、昨日の日経の大機小機でも興味深い論説が見られた(cf.ここ)。拙ブログの10/23エントリも参照。