米国が機会の国だという5つの神話

というブルッキングス研究所の記事があった(Economist's View経由)。


その5つの神話とは、以下の通り。

  1. 米国人は他国に比べ経済的機会に恵まれている
    • 最近の研究によると、実際には、北欧と英国の低所得者家庭に生まれた子供の方が、大人になってより高所得者の家庭を作る可能性が、米国よりもずっと高い。
    • 米国で中所得者家庭に生まれると、大人になった時に上下の階層に移る割合はほぼ同じである。しかし、5分位で最低所得分位の家庭に生まれた子供が中所得者以上に移る割合は、35%に過ぎない。一方、最高所得分位の家庭に生まれた子供が中所得者以上になる割合は、76%である。
    • ただし、移民の機会という点では米国は他国に比べ恵まれている。母国よりもかなり多く稼げるし、仮に最初は低賃金だとしても、子供の所得は大きく上昇する。
       
  2. 米国では、ある世代は前の世代よりも生活が向上する
    • 1990年代まではそうだったが、今やその動きは止まってしまった。現在の30代男性は、前の世代に比べ実質所得が12%低い。
    • ただ、今日では妻も働くことが多くなったため、家計所得という点では前の世代を上回っている。とはいえ、既に多くの家庭で夫婦共働きが当たり前になったため、賃金上昇が無い限りその傾向は続かないだろう。
       
  3. 移民労働者とオフショアリングが米国の貧困と格差を悪化させた
    • しばしば移民と貿易が槍玉に挙がるが、より重要な変化は、米国家庭のライフスタイルの変化。片親の家庭の子供は1968年には12%だったのに対し、現在はほぼ30%である。片親の家庭の貧困率は、両親の揃った家庭の貧困率の約5倍であるため、この傾向は貧困率を悪化させた(昨年は13.2%)。もし片親家庭の割合が1970年の水準に留まっていたら、子供の貧困率は今より3割低かっただろう。
    • 30歳以下の女性の出産の半分以上は婚外出産。これは貧困を悪化させ、子供の知的、情緒、社会面での問題増加につながる。
    • 高等教育を受けた男女同士の結婚が多くなった。これは格差を悪化させる。
    • こうした現象と、ここ数十年の未熟練労働者の賃金の停滞ないし下落傾向を考え合わせると、貧困と格差の拡大は概ね説明できる。
       
  4. 子供の機会を増やしたいならば、家計所得を増やすべき
    • 所得は機会向上の要因ではあるが、唯一の要因ではないし、最重要要因ですら無い。
    • 我々の研究によると、米国で中流階級になるためには、(最低でも)高校は修了し、フルタイムで働いて、子供を持つ前に結婚すべきである。この3つをクリアすれば、貧困に陥る確率は12%から2%に低下し、中流階級以上になる確率は56%から74%に上昇する(ここで中流階級は3人家庭で年収5万ドル以上と定義する)。
    • 多くの米国家庭はフードスタンプ、住宅提供、福祉支給といった形での所得補助を必要としている。しかし、こうした援助は無条件で与えてはならない。その理由は:
      1. 無条件の扶助は、自ら助く気の無いものを助けることはならないかと国民は懸念している。
      2. 経済学や心理学での最新の研究によると、人はしばしば自らの長期的厚生を損なう行動を取り、政府が正しい方向に突っつくことによって恩恵を蒙る。
      3. 紐付き政策は成功を収めてきた。例:1996年の厚生改革法で、成人の受給者の大部分に働くことを要求した結果、雇用を劇的に増大させ、子供の貧困を低めた。
    • 現下の情勢では皆が職に就くのは難しいが、それでも社会政策は、各人の長期的成功につながる行動を促進するものであるべき。
       
  5. 財政の無駄と不正を削減することによって機会向上のための政策の財源が賄える
    • 答えはノー。メディケア、社会保障、メディケイドの3分野の支出の急激な上昇と、財政赤字への利払いが、今後数十年にわたって他のすべての分野の支出を締め出してしまう。
    • 従って、比較的裕福な高齢者から、若い家庭とその子供に資源配分を徐々に移していくように、世代間契約を見直していかなくてはならない。それは機会を創出するだけでなく、次世代の生産性を向上させ、結果的に全員の退職後の給付を増やすだろう。


この論説に関し、Mark Thomaは以下の2つの疑問を投げ掛けている。

  • 人々が結婚すれば貧困問題が改善すると言うが、非婚問題と貧困問題は同じ原因によるのではないか。そうすると解決策は、上記で提示されたものよりももっと込み入った話になる。
  • 社会保障の財源は問題ではない*1。問題は医療コストだ。

*1:これはクルーグマンがかねてから頻りに強調しているところ(例:ここ)。