マシンソーシング?

8/4エントリでは、名無しさんから、技術進歩の逆説に関する2つの興味深いサイトを教えていただいた。一つは、サービス業の生産性上昇が技術集約産業のそれに比べてどうしても遅れを取ることから、その商品の相対価格が経時的に上昇していくという「ボーモルの病」を解説した京都橘大学のページ。もう一つは、現代の状況において技術進歩が失業につながることを「失業革命」と名付け、その問題について論じた週刊アカシックレコードの記事(一連の連載はこちら)。


海の向こうでも、同様の問題意識に基づいた論説をグレゴリー・クラークがワシントン・ポスト書いているEconomist's Viewクルーグマンブログ経由)。そこでクラークは、過去200年間に非熟練労働者は資本主義の恩恵を受けてきたことを指摘する。産業革命前は、熟練労働者は非熟練労働者の50〜100%増しの報酬を得ていたのに対し、今日の米国ではその割合は33%に過ぎない。そうした現象が起きたのは、機械化が力仕事を代替したとしても、ファストフードのサービスなど、どうしても人間でしかできない仕事は残ってきたからである(cf. 上記の「ボーモルの病」)。
だがそれも、近年のIT革命の進展で怪しくなってきた、というのがクラークの問題提起である。たとえば、電話による航空券の予約という複雑な操作も、生身の人間と一言も話すことなくできるようになった。その影響は既に統計に現れており、過去数十年の米国民全体の平均収入が倍増した期間においても、未熟練労働者の実質賃金はほとんど変化していない。
この問題の解決策として、クラークは、現在オバマ政権が進めている医療改革や、あるいは抜本的な税体系の改革を挙げている。そうした分配政策によって貧富の差を緩和しようというわけである。そして、貧困の問題を座視するつもりがないのであれば、最終的に米国は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という社会に行き着かざるを得ないのではないか、と結論付けている。


このクラークの結論は、奇しくも上記の「失業革命」の以下の文章と呼応している。

つまり、「働かざる者食うべからず」をやめ、労働者はその労働の成果(社会的評価)に応じてその代価を報酬として受け取るのではなく、労働と無関係にそれなりの生活(各国における「中の下」ぐらいの経済生活)ができる「超高福祉社会」を作るしかないのではないか。

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ただし、こうした見方は、別に今に始まった話ではない。たとえば、かつてケインズは、彼の孫の世代、すなわち現在くらいには働かなくても良い時代がくるのではないかと既に予測していた


こうした見方に対し、Economist's ViewのMark Thomaは、本当に非熟練労働者の仕事はそこまで消失してしまうだろうか、という疑問を呈している。
また、クルーグマンは、自分が以前書いた文章(邦訳はこちら)にリンクしているが、そこではIT技術の発展により高等教育の需要が下がり、非熟練労働者の価値がむしろ相対的に上昇した未来を予測している。


いずれの見方が正しいかは現時点で結論するのは難しい。ただ、少なくとも当面は、IT技術の進歩は非熟練労働者の逆風になることはほぼ間違いないだろう(クルーグマン自身もそう考えているようだ)。

日本ではかねてからサービス業の低生産性が指摘されており、その生産性を上げれば経済が良くなる、という議論がしばしば見られる。だが、クラークや週刊アカシックレコードが指摘するような要因を考えると、そう一筋縄には行かないように思われる。