ボルカーのインフレ鎮圧は誰の勝利だったのか?・その2

昨日は、80年代のボルカーによるインフレ鎮圧はケインジアンの勝利だった、とクルーグマン書いたことへのStephen Williamsonの批判を紹介したが、David Glasnerも別の視点からクルーグマン批判している

以下はその批判の概要。

  • 大部分のケインジアンは、レーガン減税はインフレ的ということで反対した。しかしレーガンの財政緩和策とボルカーの金融引き締め策の組み合わせにおいては、金融引き締め策が支配的となった。クルーグマンはこのことに触れていないが、ボルカーのインフレ鎮圧がケインジアンの予測が当たったものと一般に見做されていないのはそれが理由。高失業率を伴ったインフレの急低下は、インフレはいつでもどこでも貨幣的な現象である、というマネタリストの見方を裏付けたものとされている。
  • ただ、フリードマン流のマネタリストの見方も部分的に裏付けられたに過ぎない。というのは、ボルカーのインフレ鎮圧は、貨幣供給を厳格に管理したことによってではなく、高金利によって達成されたからである。当初ボルカーは貨幣供給の伸びを抑えようとしたが、k%ルールの導入は、貨幣の伸びが目標を超えると予備的動機による貨幣需要が生じるという奇妙な動学をもたらした。即ち、引き締めを予想した人々は、現金が手に入りにくくなるという恐れから資産を売り払って現金を溜め込もうとした。1981-82年には、皆がFRBの週次レポートの貨幣の伸び率に注目し、伸び率が目標を超えると株価や商品価格が下落する、ということが何回か繰り返された。1982年夏にボルカーが貨幣の伸びを目標とすることを断念した結果、1980年代の株式市場の大相場が始まり、景気もその後すぐに回復した。
  • ということで、インフレのコントロールに金融政策は有効ではないと考えた昔ながらのケインジアンも、貨幣総量のコントロールを重視したマネタリストも、ボルカーのインフレ鎮圧後は勢いを失った。ニューケインジアンはマクロ経済安定化策として金融政策に力点を置くようになったが、それは貨幣総量の目標管理ではなく、(テイラールールのような)金利の目標管理であった。
  • クルーグマンはこのことに触れておらず、ケインジアンが自モデルの確証を得た反面、非ケインジアンは答えを見失った、と述べている。曰く、1970年代のシカゴ学派は、FRBが本当にインフレ率を引き下げていると人々が認識したら失業率もすぐに下がる、と唱えたルーカス一派のモデルを推すようになったが、1980年代初めにそのモデルはデータにそぐわなくなった、との由。
  • しかしフリードマンもその時に消えていたわけではない。ルーカスがシカゴに来たのは1975年であり、シカゴの将来を担う存在ではあったものの、フリードマンは1976年にノーベル賞を受賞している。フリードマンが公けにルーカスを攻撃したことは無かったが、彼が合理的期待革命を買っていなかったことは明らかだった。(クルーグマンが引用した)ドーンブッシュ=フィッシャー(第一版執筆時の1970年代半ばには二人ともシカゴにいた)のマクロ教科書の適応的期待モデルは、ケインジアンであるのと同程度にフリードマニアンである。フリードマンも1981-82年の景気後退の深さに驚いただろう。