ミクロ経済学帝国主義に抗して

今月の初め、クイギンがミクロ経済学帝国主義に反対するエントリを書いた

彼の論点は以下の3点。

  1. 合理的エージェントのモデルの大部分は、「合理性」が「自己利益の最大化」で表されると仮定している。だが、この仮定は誤り、もしくは空虚なものだ。利己主義的な合理性を旨とする人は、異論を唱えられると、嘘と空ろな議論の間を行き来するが、その様子はsin(1/x)がxがゼロに近づくにつれて振幅するさまのようだ。
    投票が良い例だ。1987年の論文で自分(=クイギン)は、利己主義的な合理主義者は投票しない(もしくは非常に少数しか投票しない)半面、ごく限られた利他主義の存在が投票を合理的なものにするのに十分であることを示した。アンドリュー・ゲルマンも最近似たような指摘をした。
     
  2. 利己主義的な合理性の仮定が多くのミクロ経済学の応用でうまく働くとしても、それ以外の分野――マクロ経済学社会学、政治科学といったミクロ経済学帝国主義が獲物として狙っている分野――でうまくいくとは限らない。ある分野でうまく働いた抽象化が、他の分野でもうまく働く、というわけにはいかないのだ。特に、局所的には概ね相殺される仮定からの逸脱が、マクロベースでは大きな影響を及ぼすかもしれない。現在起こりつつある出来事に対し進みつつある理解は、還元主義の批判者に愛されるそうした見方によって裏打ちされていると思う。
     
  3. ゲーム理論というのは一般に思われてるよりも問題が多い。ナッシュ均衡を導くには、戦略空間を定義する必要がある。実際のゲームであればそれは問題ではないだろう。しかし社会的、経済的、政治的な活動では、これは参加者が問題に対する理解を共有し、モデルの構築者がそれを認識できることを要求する。現実世界ではそうなることはまずないので、ゲーム理論による分析は、基本的に恣意的な戦略をプレイヤーに割り当てることによって進められるのが通例である。