円安バブル論というバブル

竹中平蔵氏が以下のように書いている(注:閲覧には無料の会員登録が必要)。

確かに外需の低下がGDPの大幅減少を招いているが、そもそも改革が停滞し、内需が成長しなかったことにこそ、経済悪化の本質がある。同時に円安によって外需関連産業が実力以上に拡大していたのを認めなければならない。つまり、米国には住宅バブルが発生したが、日本では円安バブルが生まれていたのである。マイナス12.7%という数値は、円安バブルの崩壊も意味している。

日本経済新聞


また、伊藤元重氏も以下のように書いている。

・・・今回の世界的金融危機は、日本経済の一番弱い所を突いてきたとも言えるのだ。

 最近の10年近い超円安の中で「日本で生産して海外に輸出していく」というビジネスモデルがあまりにも拡大しすぎたのである。ある意味では輸出バブルが起きていたと言ってもよいかもしれない。

 為替レートの動きを見ると分かりやすいかもしれない。昨年9月15日のリーマンショック以来、急速に円高方向に為替レートは振れたわけだが、それでも現時点での円レートは過去の動きの中で見ると円高ピークと円安ボトムの中間的な位置にあるのだ。

 これまであまりにも円安にあったので、今の状態が超円高に感じられるのだが、実は超円安から平均的な水準に移行したにすぎない。

http://allatanys.jp/B001/UGC020001720090208COK00227.html


これらの議論は、この2/12エントリで取り上げた野口悠紀雄氏や池田信夫氏と同じく、2000年代の日本の円安バブルによる輸出依存というストーリーを描き、それを批判している。
それに対する反証は前回のエントリでほぼ尽きていると思うが、ただ、伊藤氏の「現時点での円レートは過去の動きの中で見ると円高ピークと円安ボトムの中間的な位置にある」という主張は目新しいかと思うので、今回はそれについて取り上げてみる。
通常の為替レートを見ると、この人は何を言っているのだ?、と思ってしまうが、


おそらくこの人の頭の中には実質為替レート、とりわけ実質実効為替レートがあるのだろう。

これを見ると、確かに「現時点での円レートは過去の動きの中で見ると円高ピークと円安ボトムの中間的な位置にある」。

ただ、同じ実効レートでも、名目実効為替レートが、やはり現時点では過去最高水準にあることには注意すべきである。

この実質と名目の差を生み出したのは、言うまでもなく、日本と諸外国のインフレ率の差である。それは、日銀のHPで解説されている通りである。

一般に、日本の物価上昇率が実効為替レートの算出対象となっている相手国・地域の物価上昇率を上回る場合には、実質実効為替レートは外貨建て名目為替レートが「円高」に振れた場合と同じ方向に動き、逆の場合には外貨建て名目為替レートが「円安」に振れた場合と同じ方向に動くというのが実質実効為替レートの基本的な考え方となっています。

http://www.boj.or.jp/type/exp/stat/exrate.htm

つまり、ここ10年の日本のように物価下落を経験した国は、必然的に実質為替レートは円安になるのである。この考え方の背景には、価格水準が下がった国は、同じものをより安く作れるようになったのだから、その分、製品の価格競争力が高まり、円安と同じ効果を得たことになる、という理屈がある。

伊藤氏の実質為替レートの解釈によれば、こうしたデフレの進行により、超円安が生じ、輸出バブルが生じたとのことだ。しかし、この解釈には、二つの重大な欠陥がある。
一つは、繰り返しになるが、12日のエントリで論じたように、実際に輸出バブルが生じたかどうかは極めて疑わしいという点である。

もう一つは、その解釈において、デフレによる実質的な為替の減価と、名目的な為替の減価を等価なものと見なしている点である。それが問題なのは、その見方を敷衍すると、たとえば為替レートを維持したままのデフレ政策(cf. このエントリ)と、インフレ率を維持したままの名目為替レートの切り下げは等価ということになってしまうからである。クルーグマンが聞いたらひっくり返りそうな話である。


結局、2000年代が「円安バブル」ないし「超円安」という状況であった、という認識は、データによる事実検証に堪えない粗雑な議論であるように思われる。日本を代表する経済学者がそうした見解を無批判に垂れ流すのは、それこそ一種の言葉のバブルであるような気がする。


なお、以前から個人的に思っているのだが、製品の価格競争力を念頭に実質化するのであれば、マクロ経済の需給の不均衡やら金融政策やらを反映してしまう物価指数よりは、純粋に競争力を反映する生産性をデフレータに使った方が良いのではないだろうか。
試しに、円ドルレートを物価指数で実質化したものと、生産性で実質化したものを比較すると以下のようになる*1

これを見ると、生産性で実質化した円ドルレートは、やはり現時点では過去最高水準にあることが分かる。


ちなみに、実質化に使用した比率の推移は以下の通り*2

こうしてみると、物価上昇率は一貫して日本が米国を下回っていたのに対し、生産性上昇率は80年代までは日本が米国を上回っていたものの、90年代以降はほぼ同等であることが分かる。これから、80年代までの物価上昇率の差は両国の生産性上昇率の差をある程度反映していたが、90年代以降はその要因はほぼ消滅し、両国の物価上昇率の差は金融面など他の要因で決まっていたことが伺える。すなわち、90年代以降に2つの実質レートの乖離が広がっていったのは、物価の上昇率の差において、製品の価格競争力とは無関係の要因が強くなっていったことの表れだったのである。そうしたマクロ経済面や金融面の要素も入り込んだ実質為替レートを以って円安バブルと称するのは、不注意であると同時に、危険ですらあるように思われる。


賃金上昇率も考慮すべきとか、労働生産性だけではなく資本生産性や全要素生産性も考慮すべき、といった改善点は多々あると思うが、現在の状況下では、製品の製造に掛かるコストを取り出すという面で、物価指数を使うよりもこのように生産性指数を使って実質化する方が、より為替レートの本質を捉えられるのではないだろうか。

*1:実質化に当たっては1973年を基準とした。円ドルレートは日銀のHPから取得した「東京市場 ドル・円 スポット 17時時点/月末」を使用した。物価指数による実質化では、日本の物価指数としては同じく日銀のHPから取得した国内企業物価指数・総平均、米国の物価指数としては米労働省労働統計局のHPから取得したPPIを用いた。生産性による実質化では、OECDのHPから取得した労働生産性の伸び率を指数化して用いた。ただ、2008年の数値は未更新であったため、日本についてはこの記事を基に0.9%、米国についてはこの発表(cf.このエントリ)を基に2.8%と置いた。

*2:物価比率は日本の物価指数を米国の物価指数で割ったもの。生産性比率は米国の生産性指数を日本の生産性指数で割ったもの。上図の実質円ドルレートは、名目レートをこの比率で割って求めた。
[2009/2/26]グラフの色を上のグラフと対応するように変更。