経済学者と歯医者

経済学者を歯医者に喩えたケインズの言葉があったな、とふと思い出してぐぐってみたら、この小論の締めの言葉だった*1。以前、Hicksianさんが紹介していたのを目にしていたのでタイトルくらいはなんとなく知っていたものの、きちんと読んだことがなかったので、遅まきながら今回初めて目を通してみた。
いやあ、これってかなりSFちっくな話だったのね。あるいは、共産主義ちっくと言っても良いかもしれない(特に、自己目的化した金儲けへの軽蔑を露にしたところ*2や、週15時間労働を予測した*3あたり)。


Hicksianさんの8/4エントリによると、当代の代表的な経済学者によるこの小論の論考集が9月に出版されたとのことだが、取りあえずウェブでこれについて書かれたものはないかな、と検索したところ、デロングが財務省を離任する時の挨拶(1995/5/24付け)が引っ掛かった。

Keynes saw economics as a service profession--"rather like dentists," was the phrase he used in his essay on "Economic Possibilities for Our Grandchildren". If there is something wrong with your teeth, you go to a dentist, and he or she fixes things. If there is something wrong with your economy, you go to an economist, and he or she...

Well, the analogy does break down...

He or she at least explains why things are unlikely to get better and why steps to try to make them better will probably make them worse. Our specialty is telling unpleasant truths to powerful people who do not want to hear them. This is not called the Dismal Science for nothing.

But in Keynes's view economics, rather like dentistry, was not especially desirable or worthwhile or beautiful or good in itself. It was not Civilization. Civilization--the things that were worthwhile--were things like the novels of his friend Virginia Woolf, the paintings of his friend Duncan Grant, the dances of his wife the ballerina Lydia Lopokova. The things that were the good and the beautiful--Civilization--were the insights of artists, the achievements of artisans, and the pleasures of culture.

But economics was part of the underpinnings: political democracy and cultural advance do depend strongly on economic prosperity. Without economic prosperity, the truly good and beautiful things are not even possible.

And economists have a good deal of good advice to give as to how to attain economic prosperity.

So let me echo John Maynard Keynes and offer a toast, a toast to our company: "To the economists. They are the guardians, not of Civilization, but of the possibility of Civilization."

(拙訳)ケインズは経済学を(エッセイ「わが孫たちの経済的可能性」で使った喩えでは)「歯医者のような」サービス業と見做した。歯が悪くなれば歯医者に行って直すのと同様に、経済が悪くなれば経済学者のところに行って…
が、そこで比喩は破綻する。
経済学者は少なくともなぜ事態が良くならないか、なぜ良くしようとすると却って事態が悪化するかを説明する。我々の専門は不愉快な真実を聞きたがらない権力者に伝えることだ。陰鬱な科学と呼ばれるのも故無きことではない。
ケインズは経済学を、歯科学と同様、それ自体が望まれるもの、価値あるもの、美しきもの、善きものとは見做さなかった。それは文明ではない。文明、つまり価値あるものとは、彼の友人のバージニア・ウルフの小説や、友人ダンカン・グラントの絵や、バレリーナの妻リディア・ロポコヴァの踊りのようなものだ。善きもの美しきもの、すなわち文明とは、芸術家の洞察、職人の業績、文化の愉しみなのだ。
しかし、経済学はその土台の一部である。民主政治、文化の発展は経済的繁栄に大きく依存する。経済的繁栄なしでは、真に善きもの美しきものは存在しえない。
そして、経済学者は経済的繁栄を維持するたくさんの良きアドバイスを提供する。
そこで、ケインズの言葉を引用して、我が同僚に乾杯したい。「経済学者の皆さん。あなたがたは守護者なのだ。文明の、ではなく、文明の可能性の。」


もう一つ、ウェブ上で、有名な経済学者の論考が引っ掛かった。それがマンキューのこの論文

これにはsvnseedsさん労作という優れた邦訳がある。その最終章の「歯医者は見当たらない」が、ケインズのこの小論中の歯医者の比喩を扱ったものになるが、そこでは

ジョン・メイナード・ケインズJohn Maynard Keynes, 1931)が次のように述べたことは良く知られている。「もしも経済学者たちが何とかして、彼ら自身を歯医者と同じレベルで謙虚で有能であると考えることができたとしたら、それは素晴らしいことだろう」。彼は、科学としてのマクロ経済学が、便利で日常的なエンジニアリングに発展できたら、という希望を表現していたのだった。この未来のユートピアでは、景気の後退を避けることは虫歯の穴を埋めるのと同じくらい容易となるのだろう。

ケインズの比喩を紹介した上で、

過去数十年の学問的なマクロ経済学における主要な発展は、歯医者との類似性をあまり生み出さなかった。

とはいっても、より抽象的なマクロ経済学の科学の観点からは、こうした研究はもっと肯定的にとらえることができる。新しい古典派*4の経済学者たちは、大規模なケインジアンマクロ経済学的計量モデルやそれに基いた政策の限界を示すことに成功した。新ケインズ派の経済学者たちは、賃金と価格が均衡することに何故失敗するのか、より一般的には、短期的な経済変動を理解するためにはどのような市場の不完全性を考えれば良いのか、ということを説明するより良いモデルを提供した。

と、経済学者は、歯医者には(今のところ)なり損ねているが、事態の理解に役立つ手段は生み出している、というデロングとほぼ同様の見解を述べている。
そして、最後は

今後も、謙虚で有能であることは依然としてマクロ経済学者たちが目指すべき理想として残るのだ。

と、締めくくっている。マンキューは、ケインズの比喩を今後も理想として追求すべきと考えているわけだ。

*1:リンク先はスキャナーで読み込んだものなので、ところどころ文字化けしている。
 例:p.2の第一段落終わりは、正しくは
Some periods perhaps 50 per cent better than others - at the utmost 100 per cent better - in the four thousand years which ended (say) in A. D. 1700.

*2:その部分は、この二人にも読ませたいところである。また、ケインズのこの考えは、ここの注記で取り上げたノージック「インテリが資本主義を嫌うワケ」を想起させなくもない。

*3:正確には、もう働かなくても良いが古い本能を満足させるために15時間労働になるだろう、と予測した。

*4:svnseedsさんはnew classicalもneo classicalも新古典派と訳されているが、ここではこちらの記述に従い、new classicalは「新しい古典派」とさせていただいた。