経済学者と歯医者・続き

昨日ケインズの経済学者と歯医者の比喩を取り上げた論文として、マンキューの論文「The Macroeconomist as Scientist and Engineer」(邦訳:svnseeds氏)を取り上げた。
この論文自体のテーマは、題名の通り、科学としての経済学と工学としての経済学の二面性である。その中で目を引くのが、マンキュー自らが立役者の一人となった70年代以降のマクロ経済学の発展に対する意外な低評価である。

悲しい事実だが、過去30年間のマクロ経済学の研究は、金融政策や財政政策の実際の分析には小さな影響しか与えてこなかった。その理由は、政策の舞台にいるエコノミストが近年の発展に無知だったからではない。まったく逆に、連邦準備のスタッフには最良の若いPh.Dたちがいるし、共和党民主党両政権下の大統領経済諮問委員会は国内最高の研究を行っている大学から才能ある人々を引き入れているのだ。現代的なマクロ経済学的研究が実際の政策策定に広く用いられていないという事実は、それがこの目的にはあまり役に立たないという一応の証拠となっている。こうした研究は、科学としては成功したのかもしれないが、マクロ経済のエンジニアリングには重大な貢献はしてこなかったのだった。

大学院へ進学して経済学者としてのキャリアを検討している稀有な学生を除き、学部学生は、科学者のではなくエンジニアの物の見方をしているのだ。従って、我々が学部学生を教えるのに用いる教材に留意することは有益となる。そして、学部で広く使われている教科書の中身よりも、我々が教えていることに注目するの方が重要なのだ。

例えば、中級レベルのマクロ経済学を教えるのに使われている本を考えてみよう。…これらすべての本において、学部学生に教授される基本的な理論はなんらかの種類の総需要と総供給であり、そして総需要の基本的な理論はIS-LMモデルなのだ。同様の教訓は、最も広く使われている新入生レベルの経済学の教科書を精読することでも得ることができる。短期の経済変動は、なんらかの種類の新古典派-ケインジアン総合を用いることで最も良く理解することができるのだ。

今日の学生が景気循環の理解について学ぶ基本的な枠組みは、初期の世代のケインジアンたちが精通していただろうものなのだ。

マクロ経済学の教育分野における革命の不在は、半世紀前に起こったことと著しい対照を成している。学部学生にケインズ革命を紹介することを目的としたサミュエルソンの教科書が1948年に出版されたとき、世界中の教師たちはすばやくまた誠心誠意、新しい方法論を喜んで受け入れたのだった。対照的に、新しい古典派*1と新ケインズ派の考え方は、学部学生がどのように教えられるのかについて、抜本的に変更することはなかったのだ。

新しい古典派と新ケインズ派の研究は、金融政策と財政政策を指揮するという面倒な立場にいる実践的なマクロ経済学者たちにとってあまり影響を与えなかった。そしてそれはまた、未来の有権者たちが学部教室へやってきたときに教師たちがマクロ経済政策を教えるその内容にも、あまり影響を与えなかった。マクロ経済学的エンジニアリングの観点からは、過去数十年の研究は不運な方向の誤りに思えるのだ。

つまり、彼自身が寄与した過去30年のマクロ経済学の発展は、科学としては評価できても、工学として、つまりケインズのいわゆる歯科学としては評価できない、と述べている(ただし、今後の可能性については含みを残している)。
この低評価は、以前、本ブログのここここ*2のエントリで取り上げたワルドマンのシニカルな態度と基本的には共通している。
また、この論文で引用されているクルーグマンも、その引用された論文(および、その原型となったエッセイ)で、ほぼ同様のことを述べている。

In the long run, what this says is that we haven't really got the right models. The small models haven't gotten any better over the past couple of decades; what has happened is that the bigger, more micro-founded models have not lived up to their promise. The core of my argument isn't that simple models are good, it's that complicated models aren't all they were supposed to be. But pending the arrival, someday, of models that really do perform much better than anything we now have, the point is that the small, ad-hoc models are still useful.
What that means, in turn, is that we need to keep them alive. It would be a shame if lS-LM and all that vanish from the curriculum because they were thought to be insufficiently rigorous, replaced with models that are indeed more rigorous but not demonstraby better.

クルーグマンのこの論文について少し触れておくと、これは、1998年頃にMITで院生に初級マクロ経済学を教える羽目になった経験に基づいて書かれたものである。クルーグマンの専門は国際経済・金融なので初級マクロ経済学は担当外のはずだったが、本来教壇に立つべきマクロの専門家たちが諸々の事情でいなくなり、かつ、若手のマクロの専門家がIS-LMを知らない、という状況により、急遽白羽の矢が立ったとのことである。
IS-LMは学界では今や流行遅れと見做され軽蔑さえされているが(そうした見解は齊藤誠氏がこの本で展開したIS-LM批判に良く現れている)、実務界では現役であり、利便性という点でそれに取って代わるものは――学界ではミクロ経済学に基礎付けされたモデルの精緻化、大型化が進んだに関わらず――未だ現れていない。従って、大学のカリキュラムからそうした古くて小型のモデルは外すべきではない、というのがここでのクルーグマンの主張である。


最後に、マンキューはこの自論文をブログでも何回か取り上げているので、それらのエントリを紹介しておく*3

・[http
//gregmankiw.blogspot.com/2006/05/scientists-and-engineers.html:title=最初の紹介](2006/5/16):論文の序文が転記されている*4
また、ここでは、アーノルド・クリングの反応へのリンクも張られている。クリングは最近のエントリでもこの論文に言及しているが、いずれにおいても計量経済学を用いた推計への疑念を示している(=データ不足で結果がはっきりしない;その点は最近の温暖化論議も同じとも指摘)。その疑念は尤もであるが、マンキューの提議した議論の本質からはやや外れた指摘という気もする。
・ポール・ローマーに関するエコノミスト記事に絡めての[http
//gregmankiw.blogspot.com/2006/05/poets-and-plumbers.html:title=言及](2006/5/19):科学者と技術者よりは、詩人と配管工の方が喩えとして適切だったかも、とやや自虐的とも受け取れるコメントをしている。
フリードマンからの批判の[http
//gregmankiw.blogspot.com/2006/08/letter-from-milton.html:title=紹介](2006/8/16):フリードマンからのコメント(亡くなる3ヶ月前)に感激しつつ(大仰にも神のモーゼへのお告げに喩えている)、きっちりと反論すべきところは反論しているのはさすが。
なお、ここで紹介されているフリードマンのコメントでは、k%ルールとFRBの廃止を主張しているので、数年前のFTのインタビュー記事と矛盾しているのではないかということがタイラー・コーエンのブログで話題になった(コメント欄ではクルーグマンにまで話が飛び火している)。

*1:昨日のエントリと同様、new classicalは「新しい古典派」とさせていただいた。以下同様。

*2:ここでリンクしたニュージーランドの民間エコノミスト マット・ノーランのエントリでは、このマンキューの分類を、ローマーの分類(モデル派vs現実派)より良い、と述べている。なお、この人は、先月16日のエントリで、このマンキュー論文について論じている。

*3:上記脚注のマット・ノーランのまとめによる。

*4:ちなみにこのエントリ内の論文へのリンクは現在は無効。