厚生省は計算間違いをしたのか?

野口悠紀雄氏は、年金制度への熱心な批判者である。同制度への批判者は数多いるが、氏の批判におけるユニークな指摘として、厚生省が計算間違いをしたという主張が挙げられる。その主張については、WEBではたとえばここここで読むことができる。
批判のポイントを、前者の記事から引用してみる。

では、何が間違っていたのか?

それは、「所得の伸びと割引率の想定」なのである。厚生省の計算では、所得の伸びをゼロとし、他方で割引率を5.5%と仮定していた。当時の厚生省の文献を読むと、「所得の伸びは予測し難いからゼロとし、他方で割引率は実際の利子率より低めの値にした」という趣旨の説明が見られる。実際の利子率より低めの値を用いたので、厚生省は、「堅めの想定」だと考えていたようだ。

しかし、これは、とんでもない楽観的な想定だったのだ。割引率が高すぎたのである。ゼロ成長の経済を仮定するのなら、割引率もゼロに近い値を想定すべきだったのだ(経済成長率が低下した結果、利子率も非常に低くなった昨今の情勢を考えれば、これは明らかだろう)。5.5%という、ゼロ成長経済ではありえない高い割引率を用いた結果、高齢化による受給者増という将来の問題が、著しく過小評価されたのだ。

「割引現在値」という考え方に馴染みのない読者は、つぎのように考えるとわかるだろう。先ほど述べたことを参照すれば、割引率とは積立金の利回りのことだと考えてよい。したがって、厚生省の計算は、ゼロ成長経済において積立金が5.5%の利回りで増えると想定したのと同じである。しかし、経済がゼロ成長なら、積立金の利回りもゼロに近い。だから、厚生省の計算は、給付額は一定であるのに、積立金は高利回りで増えてゆくものと想定したことになったのである。こうして必要保険料率を著しく過小評価したのだ。

仮に割引率として5.5%というその当時の現実に近い値を用いるなら、経済成長率も現実的な値を用いるべきだった。「割引率については現実に近い値を用い、他方で成長率については非現実的な値を想定した」という、まことにちぐはぐな仮定が、すべての誤りの元凶である。

http://www.noguchi.co.jp/archive/retire/rt031016.php


批判のポイントは、正直言ってこの文章だけでは掴みにくいと思われる(私も最初は良く理解できなかった)。
では、実際に数値を用いて計算してみよう。

前提:

上記の前提のもとで、割引率と成長率を変えた以下の3ケースの場合の保険料と年金を計算してみる。

ケース1(野口氏批判ケース)

  • 割引率=5.5%
  • 成長率=0%

[A] 納入保険料合計(運用益込み)
    =2万円×12ヶ月×0.069×(1.055^39+1.055^38+…+1.055^2+1.055+1)
    =1.6560万円×136.6056141
    =226.2188万円
[B] 年金月額
    =2万円×0.5
    =1万円
[A]/[B]=226.2188

[A]の納入保険料合計の計算では、2万円の月額所得を年率換算し、それに保険料率を掛けて1年間の納入保険料を求めた。それを40年続けるわけだが、最初の年に収めた分は割引率5.5%で39年、次の年に収めた分は38年、…というように複利で運用益を生み出すので、単に40倍するのではなく、括弧の中を計算した136.6倍になる。結果は226万円である。
一方、所得成長はゼロを仮定しているので、40年後も標準所得は2万円のままである。従って、[B]の年金月額はそれに所得代替率を掛けた1万円になる。
[A]を[B]で割った値は給付期間になる。このケース、つまり厚生省の想定では、226ヶ月、すなわち約19年分の給付期間を見込んでいたことになる。55歳からの給付開始と考えると75歳近くまでもつので、当時の想定としてはまずまずといったところだろう。

ケース2(ケース1に対し成長率を4%に設定)

  • 割引率=5.5%
  • 成長率=4%

[A] 納入保険料合計(運用益込み & 所得成長考慮)
    =2万円×12ヶ月×0.069×(1.055^39+1.055^38*1.04+…+1.055^2*1.04^37+1.055*1.04^38+1.04^39)
    =1.6560万円×247.4858764
    =409.8366万円
[B] 年金月額(納入終了の翌年を給付開始時点とし、その時点の所得から計算)
    =2万円×1.04^40×0.5
    =4.8万円
[A]/[B]=85.3645

成長率として4%を想定すると(この場合の成長率は名目値であることに注意)、所得は年4%ずつ伸びるので、[A]の納入保険料合計はケース1の場合よりも8割程度膨らみ410万円近くになる。
しかし、その時点の標準所得は5倍近くになっているので、[B]の年金月額は5万円近くになる。
結果として、このケースでは給付期間は85ヶ月、すなわち約7年分まで落ち込んでしまう(給付期間中も所得は成長するので、所得代替率維持のために年金を同率で増やしていくとすると給付期間はもっと短くなる)。ケース1の給付期間を維持するためには、保険料率を6.9%ではなく、その226/85倍、すなわち18.3%に設定しておく必要があった。これは奇しくも平成29年3月以降の料率に等しい。
これが野口氏の指摘する厚生省の計算間違いである。

ケース3(ケース1に対し割引率を0%に設定)

  • 割引率=0%
  • 成長率=0%

[A] 納入保険料合計(運用益=0)
    =2万円×12ヶ月×0.069×40
    =1.6560万円×40
    =66.2400万円
[B] 年金月額
    =2万円×0.5
    =1万円
[A]/[B]=66.2400

次に、90年代のような停滞経済の場合を考えてみる。所得も成長しなければ、割引率もゼロという場合である。このケースでは給付期間は66ヶ月、すなわち5.5年分まで落ち込んでしまう。ケース1の給付期間を維持するためには、保険料率を6.9%ではなく、その226/66倍、すなわち23.6%に設定しておく必要があった。つまりゼロ成長を仮定するならば、所得の実に4分の1を年金保険料として収める必要があったわけだ(労使折半とすれば労働者の負担はその半分にはなるが)。まあ、さすがにそういった状態が40年も続くというのは悲観的に過ぎるので、これは上限値という感じになるだろう。
結論としては、野口氏の言うとおり、厚生省の計算間違いが無ければ、現在の年金問題も随分違った様相を呈していたことは間違いなさそうだ。ただし、6.9%ですら高いとして5.5%まで引き下げられた当時、18%を超える保険料率が受け入れられたかどうかは疑問ではある。もし保険料率を低く抑えるのであれば、所得代替率を下げるしかないが、それにはILO第102号条約で定められた40%の下限という制約がある。これを守ろうとすると、やはり15%ないしそれ以上の保険料率は計算上は不可避だったことにはなるが、それを国民に説得するのは相当の政治努力が必要であったことは想像に難くない。

*1:この数値は上記野口氏エントリで記されている当初厚生省が予定していた料率。同エントリによると、実際に適用された料率はその後の国会審議で5.5%まで引き下げられたとのこと。ちなみに料率の推移はこちらを参照。