望月氏のABC理論の証明の何が問題になっているのか?

既にニュースで報じられているように、京都大学望月新一教授によるabc予想の証明が査読を経てPRIMS特別号電子版に3月4日付で掲載されたが、本ブログの過去のエントリ(ここここここ)で紹介した海外の学者と望月氏との溝はむしろ深まったようである。海外の学者による批判の一つの舞台となったブログ「Not Even Wrong」の運営主であるコロンビア大のPeter Woitは、「ABC is Still a Conjecture」というエントリを上げて、望月氏の証明を認めない姿勢を堅持している。このエントリはサイエンスライター中野太郎氏が訳されているが(cf. 追記の訳中野氏の関連ツイート)、その中野氏が、批判の急先鋒(かつフィールズ賞を受賞した大物数学者)であるピーター・ショルツに取材したところ(cf. 中野氏の関連ツイート)、ショルツも証明を認めない姿勢を堅持しているという。
WoitのエントリではJEというコメンターが

As of now, the English-speaking media have turned their backs on the publication of Mochizuki’s papers. In fact, one can hardly find any mention of it other than on this blog or reddit. The situation vastly differs from last year’s, when many articles quickly announced their publication. Be it the result of poor communication strategies on the part of the EMS or exhaustion, Mochizuki’s attempted proof of the ABC conjecture seems to be a dead issue in Western media’s terms. Coupled with his 65-page manuscript, containing plenty of arguments from authority, implicit ad-hominem attacks and appeals to herd behavior, the damage he is inflicting on his reputation by either refusing to accept that the proof is flawed or being able to provide valid counter-arguments is enormous, as Peter said.
(拙訳)
今のところ、英語圏のメディアは望月論文の出版に背を向けている。実際、このブログとredditのほかではほとんど言及されていない。この状況は、多くの記事が素早くその出版を報じた昨年とは大きく違っている。それがEMS側のまずいコミュニケーション戦略のせいか疲労困憊のせいかはともかく、望月のABC仮説証明の試みは西洋メディアにとってオワコンとなったように見える。上から目線の議論、暗黙裡の個人攻撃、群集心理へのアピールを多数含んだ65ページの原稿と合わせて、証明に欠陥があることを受け入れるのを拒否していること、もしくは有効な反論を提供できないこと*1のために彼が自らの評判に与えているダメージは、ピーターが言うように、かなりのものである。

と状況をまとめているが、残念ながらこれが海外の反応の現状のようである。

月氏ABC予想証明の件を精力的にツイートしているmath_jinさんは、Woitのブログを「相変わらず望月新一氏への誹謗中傷めいた投稿、コメント。溝は埋まらない。」と表現されているが、他ならぬ望月氏も、おそらくはこのブログを念頭に置いて、昨年初めの自ブログエントリで同様の激しい表現で「海外の数学界のとある勢力」を非難している。

完全に泥仕合になった感もあるが、ただ、上記のJEのコメントで否定的に扱われた望月氏の65ページの新たな反論に真面目に取り組んだ海外の数学者もいる。アデレード大のDavid Robertsは、自ブログ「theHigherGeometer」で、望月氏の反論が有効でないと彼が考える理由を記している。以下はそこからの引用*2

But the verb “identify” here is overloaded, and doing different things in each situation. This is obvious to any mathematician. And the complaint of Mochizuki is that his critics, what he terms “the RCS” (namely, Peter Scholze and Jakob Stix, I don’t know why he doesn’t do them the courtesy of naming them), are doing the former, but he is pointing to the latter as giving rise to some kind of problem. But this metaphor is at best a metaphor: it is not “closely technically related” to IUT, since i) and ii) are dealing with different meanings of the word, applying in different situations. The indented sentence starting “it is by no means…” is completely irrelevant, and I feel confused, since the sense in which \{0\} and \{1\} are identified as being isomorphic in the first half of the sentence is completely different from the sense in which they are identified as being equal points in a quotient space in the second sentence.
(拙訳)
しかし、ここでの「同定する」という動詞には過剰な意味付けがなされており、それぞれの状況で違った動作を行っている。これはいかなる数学者にとっても自明である。そして望月の苦情は、彼が「the RCS」と呼ぶ批判者(即ち、ピーター・ショルツとジェイコブ・スティックス、彼が彼らを礼儀正しく名前で呼ぶことをしない理由は私には分からない)は前者を行っているが、彼は後者がある種の問題を引き起こしていると指摘している、ということである。しかしこの比喩は良くて比喩に過ぎない。それは「IUTに密接に技術的に関連して」はいない*3。というのは、i)とii)は、違った状況に適用され、「同定する」という言葉の違った意味が扱われているからである。「it is by no means…」で始まるインデントされた文章は完全に見当違いであり、私は当惑している。というのは、その文章の前半で \{0\}\{1\} が同型として同定されているということが意味するところは、商空間においてそれらが等価な点として同定されている、という後半の文で意味するところと全く異なるからである。

ここでRobertsが取り上げた望月氏のインデントされた文章は以下である。

it is by no means the case that the fact that α and β are isomorphic as topological spaces implies a sort of “redundancy” to the effect that any mathematical argument involving I [cf. the above observation concerning fundamental groups!] is entirely equivalent to a corresponding mathematical argument in which α and β are identified, i.e., in which “I” is replaced by “L”
(拙訳)
αとβが位相空間として同型であるという事実が、ある種の「冗長性」を含意し、その結果、Iを巡る数学的議論[基本群に関する上述の記述を参照!]が、αとβが同定される、即ち"I"が"L"で置き換えられるような対応する数学的議論に完全に等価になる、ということは決してない。

ここでIは [0, 1] ⊆ R、αは{0}、βは{1}、LはI/(α ∼ β)として定義されている。

Robertsは、どの数学者も別物として把握するものをショルツ=スティックスが混同しているかのように言うのは藁人形論法ではないか、と述べている*4

redditではWoitのブログエントリのスレのほかにこのRobertsのブログエントリのスレも立っているが、その中でWoitが注目したコメンターのwhisperfiendsは、望月氏圏論の初歩的な誤解を犯していて、圏の対象と写像を混同しているのではないか、と述べている。

あるいは、望月氏が開発した宇宙際タイヒミュラー(IUT)理論では、望月氏の説明がRobertやwhisperfiendsの解釈とは別の意味を持つ、ということかもしれないが、その別の意味を学習するのに半年必要、ということになると、この溝を埋めるのは容易なことではなさそうである。

*1:ここでは「being able to」は「not being able to」のtypoと見做した。

*2:小生は数学の完全な素人なので、訳語や解釈に誤りがあるであろうこと、これはあくまでも素人が何が問題になっているのかを捉えようとした試みであることは予めお断りしておく。

*3:ここでRobertsが取り上げた望月氏の論文の節の冒頭では、「...the following elementary geometric examples are much more closely technically related to the assertions of the RCS concerning inter-universal Teichmuller theory.(…以下の初歩的な幾何学の例は、宇宙際タイヒミュラー理論に関するRCSの主張とより密接に技術的に関連している。)」と書かれている。

*4:Robertsは、redditでの議論を経て、望月氏のインデントされた文章は「the fact all terminal objects in a category are uniquely isomorphic to each other doesn’t imply taking a coequaliser won’t give you a new object(一つの圏におけるすべての終対象が互いに一意に同型であることは、余等化子を取ることが新たな対象をもたらさないことを意味しない)」と言い換えられる、としている。