経済学者から見た感染症モデルの問題

タイラー・コーエンがMRブログで経済学者から見た感染症モデルの問題点を挙げている。以下はその概要。

  1. 調整の長期的な弾力性が短期的な弾力性より強力であることを十分に理解していない
    • 短期的には人々は社会的隔離を行うが、長期的にはどの社会的隔離の方法が最善かを学習する(より完全な食料宅配サービスを選択するなど)。
    • その点で感染学モデルは悲観的過ぎる。
  2. 公共選択を十分に織り込んでいない
    • 例えばある対処法は政治的に不可能であるため、その過程で調整が行われるが、その調整というのが忍耐力に欠ける政治家が打ち出す愚策である、ということが良くある。
    • その点で感染学モデルは楽観的過ぎる。
    • ただし、これは大部分の経済マクロモデルでも織り込まれていない。
  3. モデル中の主体がモデルを知っていることによりモデルの振る舞いが変わるというルーカス批判の問題*1
    • 感染症学者はケインジアンマクロ経済学者よりはそのことを分かっているものの、そのループについてのモデル全体の閉じた解を見つけるのではなく、「我々の言うことを聞くべきだった」という方向に走っている。
    • モデル全体の閉じた解を見つけるはマクロ経済学でも感染症学でも困難だが、ルーカス批判の考慮抜きでは予測は偏ってしまう。
    • また、皆がマスクをさせることに成功すると、人々が以前よりも安全に感じて外出が増える、というサム・ぺルツマン的なリスク相殺効果も織り込んでいない。測定する変数に既に織り込まれている、と感染症学者は言うかもしれないが、その効果は安全性向上策すべてについて一定ではない。人々がより大胆にならないようにどこまでそうした対策の透明性を抑えるか、という点については、ナイーブなストラウシアンになっている感染症学者よりも、ストラウシアン経済学者の方がやや丁寧に考えている*2
  4. 失敗例による選択バイアス
    • 大規模な感染拡大という失敗例がまずモデルのカリブレーションの対象となるため、モデルは当初は悲観的になりやすい。ドイツやオーストラリアのように予想ほど感染拡大していない国を最初から織り込めていれば、現状をより上手く予測できただろう。ただ、目に見える失敗例がまずモデルの対象になるのは致し方ないという面もある。
    • その一方で、現在最悪の状況にある国(メキシコ、ブラジル、そしてインド?)ではモデルに取り込めるデータが十分に揃っていない。そのため今のモデルは、比較的良いデータを過剰なまでに織り込む一方で「列車転覆事故」ケースを十分に織り込んでおらず、楽観的過ぎるかもしれない。

コーエンはこのうち本当の批判は第一項で、他は混乱した不完全な世界で科学する時の一般的な話、と断っている。同時に、モデルは楽観方向にも悲観方向にも偏り得るのに、感染症モデルの批判者は、モデルの限界を指摘する際に特定の目的のために批判を恣意的に選択する傾向がある、というのがより重要な問題、と指摘している。

*1:その点はこちらのツイートでも指摘されている。

*2:コーエンの「ストラウシアン」の用法についてはこちらのサイトを参照。