なぜ経済学者が格差問題に注目するようになるのにこれほど長くかかったのか

ジャスティン・フォックスが表題のブルームバーグ論説を書いている(原題は「Why Economists Took So Long to Focus on Inequality」;H/T クルーグマン)。
以下はその一節。

The answer may lie in agnotology, the study of the cultural suppression of knowledge. That’s what Dan Hirschman, a lecturer in economic sociology at the University of Michigan who will start work later this year as an assistant professor of sociology at Brown, proposes in a chapter, titled “Rediscovering the 1%: Economic Expertise and Inequality Knowledge,” of his brand spanking new Ph.D. dissertation. It makes for interesting reading.The term “agnotology” was coined 20 years ago by Stanford University historian of science Robert N. Proctor. Epistemology is the study of what knowledge is and how it is acquired; Proctor proposed, half-jokingly it seems, that agnotology was the opposite.
Proctor was referring at the time to the tobacco industry’s efforts to obscure the links between smoking and cancer. Hirschman’s account of the economics profession’s treatment of inequality relies on no such deliberate suppression of knowledge. It is about, in his words, “normative ignorance” instead of “strategic ignorance.”
The National Bureau of Economic Research published the first detailed analyses of the U.S. income distribution based on tax records in the early 1920s, with a heavy focus on those near the top because at that point they were the only Americans who paid income taxes. The Commerce Department’s Bureau of Economic Analysis later took over the project and published detailed income-distribution data in the 1950s and early 1960s, and again briefly in the 1970s.
The BEA finally gave up not because of political pressure but because its resources were limited and economists just didn’t seem interested in the numbers. Macroeconomists were satisfied with knowing the economy-wide income breakdown between labor and capital, while labor economists were more interested in survey data that allowed them to connect incomes to variables such as education, gender and race. The fact that those surveys had to be “top-coded” -- results from those with the highest incomes were censored to protect people’s privacy -- didn’t seem to be a major problem. In Hirschman’s telling, the discipline had established two “regimes of perceptibility” that rendered what was going on at the top of the income distribution invisible.
(拙訳)
その答えは無知論に求められるのかもしれない。無知論というのは、知識に対する文化的な抑圧に関する研究である。それが、ミシガン大学で経済社会学の講師を務め、今年後半にブラウン大の社会学の准教授に転任するダン・ハーシュマンが、真新しい博士論文の「1%の再発見:経済の専門家と格差の知識」と題された章で提示している話である。これは興味深い読み物である。「無知論」という言葉は20年前にスタンフォード大学歴史学者ロバート・N・プロクターによって作られた。認識論というのは、知識及びその獲得方法についての研究である。プロクターは、おそらくは半ば冗談で、無知論をその対語として提示した。
プロクターが提示した際には、喫煙と癌の関係をぼやかそうとするタバコ業界の動きを指していた。経済学者の格差問題の扱いのハーシュマンによる説明は、そうした意図的な知識の抑圧には依拠していない。彼の言葉を借りれば、それは「戦略的無知」ではなく「規範的無知」であった。
全米経済研究所が最初に納税記録に基づく米国の所得分布の詳細な分析結果を公表したのは1920年代初頭のことであった。それは上位層にかなりの力点が置かれていたが、理由は、当時所得税を払っていたのは彼らだけだったからである。後に商務省経済分析局がそのプロジェクトを引き継ぎ、1950年代と1960年代初頭、および、1970年代に短期間、詳細な所得分布のデータを公表した。
経済分析局はその公表を最終的に中止してしまったが、それは政治的圧力のせいではなく、リソースが限られていたのと、経済学者がそれらの数字にまったく興味を示さないように思われたためである。マクロ経済学者は経済全体の所得の労働と資本への配分を知ることで満足してしまったようであり、労働経済学者は所得を教育、性別、人種といった変数と関連付けることができるサーベイデータの方に興味を示した。サーベイデータが「トップコード」される必要があること、即ち、最も高い所得層の結果はプライバシー保護のために隠匿される必要があることは、大きな問題とは考えられなかった。ハーシュマンに言わせれば、経済学は、所得分布の最上位層で何が起きているかを見えないものとした2つの「認識制度」を確立したのである。

1980年代に最上位層の所得の上昇が囁かれ始めた時、経済学者はそれを概ね無視した、とフォックスは言う。MITのレスター・サローは重要な例外であったが、当時の彼は経済学者というよりは知識人と見做されていたこともあり、経済学界にあまり波紋を広げることは無かった、とのことである。
1990年代には、ハーシュマンが指摘するところによれば、ジェームズ・ポターバ(James Poterba;Daniel Feenbergとの共著論文)とポール・クルーグマン*1という経済学界の主流に近い2人のMITの経済学者が最上位層の所得の急上昇を指摘した。所得格差は一時的に大きな政治問題となりビル・クリントンが1992年の選挙演説でクルーグマンの推計を引用したりしたが、すぐにクリントンの政治的優先課題も、ポターバやクルーグマンの研究の関心も、別のところに移っていった。
所得格差の問題が本格的に経済学者の間で取り上げられるようになったのは、ピケティとサエズが2000年代初めにデータを整備してからのことである、とフォックスは言う。
またフォックスは、1990年代の所得格差の議論では「技能偏向的技術進歩(skill-biased technological change)」が主たる説明となっていたが*2、その説明では格差は不可避でありむしろある程度は望ましいことになる(∵技術進歩は生活水準を向上させるので妨害すべきではない)、という点も指摘している。しかし、最上位0.01%の所得が爆発的に伸びたのはそれでは説明できない。そこで漸く経済学者はそれ以外の原因に目を向け始め、社会学者の指摘する社会規範の変化や、政治学者の指摘する法律や政治的優先課題の変化、および、ピケティのような新たな経済学的説明について論じるようになった、とのことである。その結果、今年の全米経済学会では、フォックスが数えたところ、少なくとも70の格差に関する研究発表がなされるに至った、との由。


このフォックスの論説についてクルーグマンは、フォックスが言及していない重要な点として、格差はモデル化が難しいことを指摘している。即ち、所得分配には要素への分配(資本vs労働や教育水準高い労働vs低い労働)と個人への分配という2種類があるが、前者については古き良き限界生産性理論でモデル化可能であり、経済学者はリカード以来常に研究を続けてきたものの、後者についてはモデル化の方法が未だに分かっておらず、せいぜい説得力があるような無いようなアドホックな物語があるに過ぎない、とクルーグマンは言う。ピケティが注目されたのは、r-gをはじめとするマクロ経済的な数字と富の格差とを結び付けるモデルのスケッチを描き、経済学者が体系として論じることができるものを提供したことが一因だが、ピケティ自身も、格差拡大は所得分布の右端で起きており、それは規範と関係するかもしれないが、現在のいかなるモデルでも上手く説明できない、と認めている。また、個人の所得分配が上手く説明できないのは英米新古典派だけではなく、例えばマルクスも要素分布の話しかしていなかった、とクルーグマンは指摘する。
その上でクルーグマンは、モデルが無くても重要な問題は研究すべきではないか、という想定される質問に対し、レイモンド・チャンドラーのエッセイ「簡単な殺人法(The Simple Art of Murder)」から以下の一節を引用し、何か面白いことを言える能力は研究テーマにも影響するのだ、と回答している。

Other things being equal, which they never are, a more powerful theme will provoke a more powerful performance. Yet some very dull books have been written about God, and some very fine ones about how to make a living and stay fairly honest.
(拙訳)
他の条件が等しければ――そうなることは決して無いが――より迫力のあるテーマがより迫力のある結果を喚起する。しかし、神について極めて退屈な本が何冊も書かれた半面、真っ当に生きて生計を立てる方法についての非常に優れた本が何冊も書かれている。

確かに現在は経済学者が個人の所得分布に取り組むようになっているが、それは主にこの分野のデータ革命を受けた実証的なものである、とクルーグマンは言う。それは良いことであるが、もっと早くやるべきだった、という批判に対しては皆が思うよりも正当な言い訳があるのだ、と述べてクルーグマンはエントリを結んでいる。

*1:cf. ここでリンクしたアメリカン・プロスペクト論説。

*2:cf. ここ