トマ・ピケティとジョーン・ロビンソンの亡霊

と題したエントリ(原題は「Thomas Piketty and the Ghost of Joan Robinson」)で、ディーン・ベーカーがクルーグマン5/1エントリに反応している。

クルーグマンはそのエントリでサイモン・レン−ルイスTom Palleyの論戦を取り上げ、Pallyやジェームズ・ガルブレイスが展開しているピケティ批判は、ピケティが援用している限界生産性理論への反発に根差している、と分析してみせた。その上で、それらの左派経済学者は、大不況によって1960年代のケンブリッジ論争でジョーン・ロビンソンやニコラス・カルドアが正しかったことが証明されたと躍起になって主張している、と論じた。クルーグマンは、そうした主張はピケティの話と無関係であり、そもそも正しくない、と批判している。

そのクルーグマンの見方に対しベーカーは概ね以下のような異論を唱えている:

  • 自分に言わせれば、ケンブリッジ論争に直接関わるある問題をピケティは提起した。彼は資本と労働の代替の弾力性は1より大きいと論じた。従って、資本量が労働量に比べて増大したとしても、それに応じて利益率が低下する保証は無い。このことは、経済が富むにつれて資本の比率が増加する可能性を示している。
  • ケンブリッジ論争で英国側は、マクロ的な生産関数は意味が無い、と論じた。彼らは、異なる種類の資本を収益率と独立した形で集計する手段は存在しない、と指摘した。いかなる資本財の均衡価格も収益率に依存している。従って、資本が増加するにつれてどのように収益率が変化するかについては単純な話に帰着させることはできない。というのは、収益率と関連づけること無しにそもそも何が資本の増加かを論じることができないからだ。
  • この英国側の主張は、少なくとも自分の解釈では、経済の実態を多少なりとも近似する理論仮構物を我々は持ち合わせていない、ということを意味する。よって、資本の収益率を決定したい場合は、代替の弾力性に目を向けるべきではなく、利益率の決定要因としての制度的および政治的要因に目を向けるべき。
  • 代替の弾力性に関するピケティの主張が惹起した議論は、必然的に無意味なものとなる。資本労働比率が増加するにつれて利益の配分がどのように変化するかを伝える技術的な関係を過去のデータから読み取ることはできない。
  • このことはジョーン・ロビンソンとニコラス・カルドアが正しかったことを大不況が証明したことを意味するわけではない。とはいえ、大不況にいたる住宅バブルおよびその帰結を見抜けなかったことから言えば、経済学はよろしくない状態にある。