コント:ポール君とグレッグ君(2014年第9弾)

ピケティ本について同日(4/25)に両者が書いたエントリが、期せずして対話のようになっていたので、以下にまとめてみる。

グレッグ君
ピケティ本の取りあえずの感想。この本には、
  1. 格差と富の歴史
  2. 次の100年に関する予測
  3. 富への世界的な税といった政策提言
という3つの要素がある。

このうちの一つ目は素晴らしい。大変気に入った。

二つ目はかなりの憶測が混じっている。経済学者はこの手のことにまるで向いていないのだよ。特に、r>gから、社会における遺産の役割が増大する、という結論に飛んだところは、飛躍として大き過ぎるように僕には思える。資本の所有者の多くは資本へのリターンをかなり消費してしまうため、富はrの伸び率では増えていかない。その消費とは、高級車だったり豪華な休暇だったり慈善事業への気前の良い寄付だったりするわけだ。それに、結婚が完全な同類婚*1になっているか、長子だけが相続権を持つ時代に戻らない限り、家族当たりの富は遺産分割によって縮小していく。ということで、僕に言わせれば、ピケティはr>gから過大な結論を導き出そうとしている。(突然だが、経済オタクへのクイズ:(a)標準的な世代重複モデルでr>gは何を意味する?(b)そのモデルでの遺産の額は? 答え:(a)経済は動学的効率的(つまり、資本の過剰蓄積は無い)(b)ゼロ)

三つ目はピケティの経済学であると同時に彼の個人的な政治哲学になっているね。周知の通り、「である」から「べき」を導き出すことはできないんだ。オバマ大統領をはじめとする左派の人々と同じく、ピケティは富を皆に分け与えたいんだね。ただ、それとは別の政治哲学として、政府の仕事は、経済の成果を特定の形に分配することではなく、契約や財産権といった規則を執行して機会を遍く普及させることである、という見方もあるよ。ジョン・ロールズ(やトマ・ピケティ)の政治哲学の方がロバート・ノージック(やミルトン・フリードマン)のそれより優れているという結論は、いくら経済史を積み重ねても出てこないね。

まとめ:彼の予測を肯わなくても彼の経済史を玩味することはできる。そして、彼の予測に納得したとしても、彼の規範的な結論を肯う必要はない。
ポール君
2点言っておく。ピケティは富が集中すると主張しただけではなく、実際に過去に集中したことを示した。ベルエポック時代のフランスについての精力的な分析の要点は、まさにそこにある。その時代は遺産が物を言ったのだ。それに、多額の寄付を行うビル・ゲイツ一人につき、自分たちの家系の財産を永続化することに血眼になっている家族がたくさんいる。米国の最富裕の10人の中に4人のウォルトンと2人のコークがいることをお忘れなく。
第二に、ピケティは富の大いなる集中を予測したが、際限なく集中すると予測したわけではない。この点について彼は明言を避けて自分のモデルを指し示すに留まっているが、もっときちんと言うべきだったかもしれない。
僕の解釈はこうだ。ある家族が一定額の富を獲得したとしたら、その家系は富の蓄積に懸命になり、資産からのリターンのほんの一部しか消費せずに、残りを貯蓄して後の世代に引き継ぐだろう。ただし、浪費家が現れてその富を食い潰してしまう可能性は世代ごとに存在する。
この場合、家族の富の均衡分布が出現するだろう。その分布には、三世代に亘って富を蓄積した家族、それより少数の四世代に亘って富を蓄積した家族(数が少なくなるのは富の食い潰しが発生するためだ)、それよりさらに少数の五世代に亘って富を蓄積した家族、等々、がいる。
五世代家族は四世代家族よりどのくらい裕福か? それは収益率r次第であるが、彼らの富のシェアは成長率gにも依存する。また、六世代家族と五世代家族の関係は、五世代家族と四世代家族の関係と同等、以下同様、となるだろう。富の分布はパレート分布に従うことになる(実際、上位層の資産の分布はそれに従っている)。その特性指数はr-gに依存する。
ということで、永遠に続く富裕層の家系は存在せず、「エリートの入れ替え」はゆっくりとしたペースで起こる。とは言え、家系の中には長く続くものもある。そして、もし税引き後収益率が高ければ、そうした家系は富のかなりの割合をコントロールするのだ。
一言言っておくと、ピケティに実証面や論理面で明白な穴がある、と思ったならば、多分それは大きな間違いだ。彼は宿題をきちんとこなしているのだ!


ちなみにここでクルーグマンが反論したピケティ批判は、マンキューのブログエントリではなく、David BrooksのNYT論説である。

*1:cf. ここ