供給からの逃走

クルーグマンが、ヒックス的なマクロ経済の見方は、今般の経済危機において、需要については極めて上手く機能したが、供給についてはそれほど上手く行かなかった、とブログで論じた。というのは、インフレと失業の平面図において、70年代と80年代の過去の不況期については時計方向のスパイラルが見られたが、今回は見られないからである(下図)。

インフレが過去のインフレと失業率に依存するという「加速度的な」フィリップス曲線からはデフレが高進するはずであったが、現実にはそうはならなかった。その理由としては、名目賃金の下方硬直性や、インフレ期待の「固定化」(“anchored” inflation expectations)が挙げられ、クルーグマン自身もそうした説を過去に引用したことがあったが、標準的なマクロ経済学はデフレが起きなかったというこうした意外性を未だ十分に取り入れていない、とクルーグマンは言う。


またクルーグマンは、供給面のもう一つの問題として潜在生産力の低下を挙げ、そうした低下は明確に循環的な景気後退や緊縮策と結び付いている、とFatas=Summersの最近の研究や、ローレンス・ボールの研究、および、関連する自エントリ()に言及しつつ論じている。さらに、緊縮策と潜在生産力の低下の関係を示すものとして以下の図を提示している(この図はボールのデータを用いているとの由)*1


こうした供給面の問題に主流派の経済学が十分に取り組んでいないことは、流動性の罠の下での財政緊縮策の危険性、および、実際には十分な金融政策を行っていないにも関わらずデフレが起きていないことを理由に中銀が自己満足してしまう危険性の存在を示している、とクルーグマンは述べている。


このクルーグマンのエントリにTony Yatesが反応し、デフレが起きなかったことに関する論点として以下の3つを挙げている。

  1. まだデフレが起きる可能性が無くなったわけではない。少なくとも英国ではその可能性は残っている。
  2. 標準的なDSGEモデルに金融摩擦を組み込んだモデルでは、信用収縮によって供給が制約され、インフレに上方圧力が掛かることが示されている。スプレッドが元に戻った英米では今はそうした摩擦は弱まっているが、当初はインフレを押し上げたのではないか。
  3. 金融仲介機能が回復した今もインフレを押し上げているのは履歴効果ではないか。即ち需要面からの生産の大幅な減少は、失業者の技能の低下および労働力からの間合いの拡大や、資本ストックの劣化や除却を通じて、潜在生産力も損なったのではないか。


またデロングも反応し、ヒックス流の経済学の失敗に関してクルーグマンが省略した論点として、短期という期間の長さを挙げている。即ち、そうした経済学における短期とは、経済における一般的な契約期間の2〜3倍相当とされている、とデロングは言う。例えば雇用契約期間が通常3年である経済では6年、1年である経済では3年程度になる。その期間を過ぎれば、長期的な完全雇用水準に戻る、ないし、戻りつつある経済の名目値に相応しいだけの十分な名目価格や名目賃金の調整が行われたはず、というのがそうした経済学の考えである。また、価格の慣性の期間が限られていることが、先を見通す金融市場や、利益率を睨んだ投資に関する決断と相俟って、雇用や生産が完全雇用や維持可能な潜在生産力の水準から短期的に大きく落ち込むことを和らげるはず、とのことである。
そうした考えは理論的には良さそうに思われたが、2007年以降の現実でその正しさが証明されることは無かった、とデロングは述べている。

*1:[追記]逆の因果関係の可能性を考えると(特に欧州の債務危機国)、必ずしもクルーグマンの主張を強固に裏付ける図とは言えないような気も個人的にはする。