マクロ経済モデルの方程式数は何本が適正か?

昨日紹介したレイ・フェアの1978年の97本の方程式のモデルについて、ロバート・ワルドマンは、それはさすがに多過ぎるが、一方で最近のモデルの方程式数は少なすぎる、と述べている

I have to admit that I don’t intend to ever work with a model with 97 separate equations (meaning 97 dependent variables). But I think that one fatal defect of current academic macroeconomics is that it has been decided to keep the number of equations down to roughly 7 (New Keynesian) or fewer (RBC).
I will start by discussing the costs of such parsimony.
(拙訳)
97の独立した方程式(それは97の従属変数を意味する)で研究をしたいとは個人的にはまったく思わない、という点は認めざるを得ない。しかし、現在の学界のマクロ経済学の一つの致命的な欠陥は、方程式の数を7本程度(ニューケインジアン)、ないしもっと少ない本数に(RBC)留めておこうという決定がなされた点にある、と私は思う。
まずは、そうした方程式数の倹約の対価について論じたい。

その上で、以下の10点を指摘している。

  1. 2008年以前のDSGEモデルの一つの特徴は、金利が一つしか無いと仮定していること。それでは足りないという点では皆の意見が一致している。実際の金利は何千と存在しているが、短期国債とジャンク社債のリターンの差は、細部として無視されてきた。2008年以後、経済学者はリスクプレミアムとその変化に焦点を当てるようになった(ただし必ずしも企業レベルのミクロデータと関連した説明に固執してはいない)。この点については、2008年以前の手法は大いに間違えていた、と皆が合意しているように思う。

  2. 自分の知る限り(ただし自分は本来知っているべきことを知らないが)、もう一つの省略はそれほど注目されてこなかった。標準的なDSGEモデルには依然として住宅部門が含まれていない。ということは、経済学者は住宅を完全に無視して大不況を理解しようとしていることになる。この点においては、金融政策が主に住宅投資を通じて生産に影響するという古い見解は、否定されているというより殊更無視されている(そして忘れられている可能性が極めて高い)。

  3. 同様に、四半期データのパターンに合わせようとしているモデルにおいて、在庫が存在しない。私はローマー(ポールでもクリスティーンでもなくデビッド)の「上級マクロ経済学」を使って教えている。彼は、トレンドを除去した(ないしHPフィルタを掛けた)分散の主な構成要素はトレンドを除去した在庫投資の分散だ、と述べているが、その後はこのトピックについて何も書いていない。彼は、学界のマクロ経済学者としては、(フェアを別にして)ルーカスから最も遠い場所に位置している。景気循環をモデル化しようとする際に在庫が無いと仮定するのは狂気の沙汰である。

  4. 標準的なモデルは一部門モデルである。財とサービスの区別に関する議論は無く(ただし今は金融サービスだけは論じられているが)、資本財と消費財の区別に関する議論も無い。特に、ある労働者がファストフード部門から自動車製造部門に喜んで移るような体系的な賃金の差も存在しないと仮定されている。ここでも再びミクロ計量経済研究が完全に無視されている。

  5. 標準的な学界のDSGEモデルは閉鎖経済を仮定している。

  6. RBCもしくはNKモデルで仮定されている賃金・価格設定メカニズムが現実的であると考える者は誰もいない。それらは、便利なショートカットとして擁護されている。

  7. 雇用や解雇のコストが無いと仮定されている(ないし、レイオフに抗議する労組が無いと仮定されている)。同様に、資本の調整費用に関する仮定も、経営者が株主価値の最大化だけのために行動するという仮定とデータを折り合わせる必要が生じるまで誰も考慮しなかった。

  8. 経営者と株主と言えば、企業にはプリンシパル=エージェント問題が無いと仮定されている。

  9. 市場は完全であると仮定されている。明らかにそうではないにも関わらず、である。また、一般均衡の理論家たちは、標準的な結果にとってその仮定が決定的な鍵となっているということを知っている。

  10. 実際には明らかに違うにも関わらず、代表的主体が存在すると仮定されている。一般均衡の理論家たちは、その仮定が途轍もなく大きな違いをもたらすことを知っている。

ワルドマンは、以上のことは、かつての景気循環の研究が力点を置いていたトピックの大部分と、1973年以降のミクロ経済学の発展の大部分が無視されていることを意味する、と述べている。また彼は、こうした批判に対し、極端な仮定を緩めた特別目的のモデルを(時には批判を受けて事後的に)持ち出す人がいるが、政策に関する議論はあくまで標準的なモデルを用いてなされている、と指摘している。さらに、方程式が多過ぎるモデルは理解が難しく考えを明確化するのに役立たないと言うが、現在のDSGEモデルも直観的に把握できないではないか、と述べている(その際に29-30日エントリで紹介したデロングのエントリにリンクしている)。