ジョン・クイギンが、ヘンリー・ハズリット(Henry Hazlitt)の「Economics in One Lesson」(邦訳は下記)に対抗して「Economics in Two Lessons」という本を書こうとしており、その序文の草稿をCrooked Timberおよび自ブログで公開している。
- 作者: Henry Hazlitt(ヘンリー・ハズリット),村井章子
- 出版社/メーカー: 日経BP社
- 発売日: 2010/06/24
- メディア: 単行本
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しかしなぜ今更70年前の書籍への応答を書こうとするのか? その点についてクイギンは以下のように説明している。
Hazlitt presented the core of the free-market case in simple terms that have not been improved upon by any subsequent writer. And despite impressive advances in mathematical sophistication and the advent of powerful computer models, the basic questions in economics have not changed much since Hazlitt wrote, nor have the key debates been resolved. So, he may be read just if he was writing today.
(拙訳)
ハズリットは自由市場主義の核心を簡単な言葉で表しており、その後にそれを上回る書物は現れていない。また、数学的精緻さの驚くべき発展や強力なコンピュータモデルの到来にも関わらず、経済学の基本的問題はハズリットがこの本を書いて以来あまり変化していないし、主要な論題も解決していない。そのため、彼の本は恰も今日書かれたものであるかのように読める。
なおクイギンによると、ハズリットの本は、フレデリック・バスティアの1850年のパンフレット「The Law(法)」(邦訳)と「What is Seen and What is Unseen(見えるものと見えないもの)」(邦訳)を下敷きにしているという。ただしハズリットは、1930年代の大恐慌への反応として発展したケインズ経済モデルへの批判を盛り込むという拡充を行ったとのことである。
ハズリットが取り上げた主要な問題の中には以下のようなものがあった:
ハズリットは上の問題すべてに対して「否」という答えを出している。
経済学的手法においては、あらゆる行動や政策について、直近の影響だけでなく長期的な影響を考え、一つの集団への影響だけではなくすべての集団への影響を追跡する。それがハズリットの言う経済学の一つの教訓(One Lesson)である。ハズリットに言わせれば、すべての生産は何か他の生産を行わないという対価の下で行われているとのことである。
クイギンは、ここでハズリットは機会費用を持ち出している、と解説している。そして、機会費用というほとんどすべての経済学者が受け入れている概念から、政府の経済への介入はまず正当化されない、という彼の結論がどうやって導き出されたかについて考察している。その答えは単純で、ハズリットはすべての財やサービスについて、機会費用は市場価格だ、と仮定しているのだという。クイギンはハズリットの教訓を以下のように言い換えている。
Assuming that market prices are equal to opportunity costs, government interventions that change the market allocation must have opportunity costs that exceed their benefits.
(拙訳)
市場価格が機会費用と等しいという仮定の下では、市場による配分を変えるような政府介入は必ず便益を超える機会費用を伴う。
ハズリットの主張の単純さは彼の大いなる強みであり、複雑な問題を唯一の原則で一刀両断することによって、政府介入に反対する自由市場主義の核心を提示している、とクイギンは言う。
だが、ハズリットの強みは同時に弱みにもなっている、ともクイギンは言う。クイギンはハズリットの立論の弱点として以下の3点を指摘している。
- 価格と機会費用の関係について何も示しておらず、両者が常に等しくなるような市場による唯一の配分があるものと暗黙裡に仮定している。両者が乖離するのは政府による介入があった場合のみである。既存の所得の分布(もしくは、彼の嫌う政策が廃止された後の所得の分布)こそが、彼の一つの教訓と整合的な唯一の分布である、ということを彼の主張は(明示的に述べられていないものの)含意している。
- 当時はまだ最近の出来事だった大恐慌の経験にも関わらず、ハズリットは経済が常に完全雇用にある、ないし政府や組合の妨害が無ければ完全雇用にある、と暗黙裡に仮定している。
- 経験の示すところによれば、経済で恐慌ないし不況の状態が何年も続くことは良くある。そうした状況下では、市場は需給を適切に一致させない。そのため、賃金をはじめとする価格は、一般に機会費用の決定要因にはならない。
- 経済学者が「市場の失敗」と呼ぶものがあるため、財産権の初期の配分を受け入れた場合でさえ、独占など各種の問題のせいで、社会全体にとって重要な機会費用すべてが市場価格に反映されないということが市場システム内で起き得る。
以上を基に、クイギンは、ハズリットの1つの教訓に代わるものとして、以下の2つの教訓を導き出している。
Lesson 1: Market prices reflect and determine opportunity costs faced by consumers and producers.
Lesson 2: Market prices don’t reflect all the opportunity costs we face as a society.
(拙訳)
これについて、Crooked Timberのコメント欄でピーター・ドーマンが以下のような指摘を行っている。
It seems to me that you can use Hazlitt’s trope against him. H says that policies to override the market are selfish and socially wasteful because Keynesians/socialists/populists ignore the “hidden” opportunity costs that others must bear. Your case is that the personal opportunity cost faced by people in the economy is often different from the social opportunity cost, which is why there ought to be corrective policies. What you are saying, then, is that free market enthusiasts ignore this difference because they are unable to see beyond their personal, direct interests — exactly H’s critique, but turned around.
(拙訳)
ここでハズリットの比喩的用法を彼に対して使うこともできるのではないか。ハズリットは、ケインジアン/社会主義者/ポピュリストは他者が負担することになる「隠れた」機会費用を無視しているため、市場の結果を覆すような政策は利己主義的であり社会的浪費だと言う。貴兄の主張は、経済の中で人々が直面する個人の機会費用は社会の機会費用とは異なることが多く、そのためにそれを修正する政策が必要になる、というものだ。すると貴兄の言っていることは、熱狂的な自由市場主義者は、自分の個人的かつ直接的な利害しか目に入らないため、そうした差を無視している、というものになる。これはまさにハズリットの批判だが、ただし向きを逆にしたものだ。