コント:ポール君とグレッグ君(2015年第3弾)

ランド・ポールの立候補をきっかけにした2人のエントリ。

ポール君
ネイト・コーンがランド・ポールリバタリアンとしては勝てないと言っている。というのは、事実上リバタリアンというものがいないからだとの由。それは本当のことだ。ランド・ポールはいかさまの金融経済学なんかを信じているせいで勝てないのだ、と言いたいところだが、実際にはそうしたことは、リバタリアンを自認する米国人は少なく、そう自認している人も自分を誤魔化している、という事実に比べれば大した問題ではない。以下の図で考えてみよう。
社会保障賛成 社会保障反対
社会的にリベラル リベラル リバタリアン
社会的に非リベラル 労働者階級の保守派 保守派
同性婚公民権に賛成し、政府の退職給付や医療給付に反対する人、即ちリバタリアンは、本来的にはいるはずだ、と思われるかもしれないが、実際にはほとんどいない。
対角線上の箱はもっと人がいないかもしれない。この箱の良いキャッチフレーズが思いつかないほどだ(何か良い提案はあるかな?)。「hardhats(労働者階級の保守派)」とつけたことで、労働者寄りの政策や失業給付やメディケアを支持していたと思われる荒ぶる組合労働者が、薄汚いヒッピーを痛めつけて喜んでいた古き良き時代を覚えている僕の年齢がばれるね。でも今日の政治的舞台でそれに類する人を見つけるのは難しい。
ではなぜこの2つの箱は空っぽなのか? なぜ米国の政治は事実上一次元で、同性婚を支持する人は医療保険を支持し、その逆は逆、となっているのか? (そして、爆弾か話し合いかという外交問題に関する立場も、ほぼ完全にその線に沿っている)
僕が知っている最良の説明はコーリー・ロビンのものだ。それによると、両者の志向の根本的な違いは、伝統的な階層に挑戦するか、それともそれを維持するかにある、との由。保守派は、口では自分たちはすべての面において個人の自由を擁護すると言っているが、実際には伝統的な階層を維持することを欲している。それによって彼らの立場の説明がつく。強力な社会保障は雇用者の労働者に対する権威を脅かし*1、寛容な社会政策は家長制を脅かす、というわけだ。
現代のリベラリズムはその逆で、より流動的で公平な社会を求めている。リベラル派は家族の価値を壊そうとしている、と非難する右派を我々は嘲笑するが、その「家族の価値」が実際には権威の伝統的構造を意味しているならば、右派の非難にも一理ある。
いずれにせよ、純粋なリバタリアンは米国にいないことは覚えておいたほうがよい。そして、自分はリバタリアンだという人は、実際にはリバティ(自由)を好いてはいない。
グレッグ君
ポール君が、ランド・ポールのようなリバタリアン候補が成立するのに十分な人数のリバタリアンは米国にいない、と言っている。リバタリアンがそれほど少ないかどうかは分からないが、たとえそうだとしても、ランド・ポールがそのグループの最良の代表かどうかは疑わしく思う。
ポール君と同様に僕も、リバタリアン有権者を、(同性婚のような)社会的問題に関しては左寄りで、(税制や規制のような)経済的問題に関しては右寄りの人、と定義する。僕は自分を間違いなくその陣営の中に入れるが、ポール君の言うほど孤立しているとは思わない。同じような価値観を持つ学生にたくさん会うからね(ただし、確かにハーバードの学生は有権者の代表的なサンプルとは言い難いが)。
とはいえ、リバタリアンの候補は幾つかの困難に直面するだろう。特に、共和党は伝統的に経済的保守と社会的保守という不安定な連合に依拠している。リバタリアン候補はそれとは大きく異なる連合を組み立てねばならない。
ランド・ポールがそうするとは思われない。例えば、彼は同性婚に反対している。その立場で新たな連合を組み立てることはないだろう。
僕が知っている多くのリバタリアン有権者(前述の学生を含む)は、しばしば民主党候補に投票する。というのは、彼らは社会的問題を経済的問題より重視するからだ。僕は大抵は共和党候補に投票するが、それは僕が経済的問題を社会的問題より重視しているからだ。
もう一つの理由は、民主党が社会的問題について先導しているとは思わないからだ。ビル・クリントンが結婚擁護法に署名したことを思い出してほしい。バラク・オバマは大統領選に立候補した時に同性婚に反対していたが、その後その件に関して「進化した」(豹変したとも言う)。この件やそれ以外の社会的問題について、我々の選ばれた指導者は実は追随者に過ぎない。指導者は米国民なのだ。

*1:これについては以前別の見方を紹介した。