人的資本という用語を巡る論争が暫くエコノブロゴスフィアを賑わせていたが、きっかけはブランコ・ミラノヴィッチの表題のアルジャジーラ論説記事(原題は「Junk the phrase 'human capital'」)であった。それに反応したNick Roweのブログ記事やTim WorstallのForbes記事を受けて、ミラノヴィッチは自ブログで改めて論説の趣旨を解説している。その内容は概ね以下の通り。
- 人々はさらなる教育を受けることに掛かる費用(機会費用を含む)とそこから得られる便益を比較する、というミンサー的なアプローチには異論はまったく無い。それを自らの最適技術水準への投資に関する意思決定と呼ぼうが、「人的資本」への投資に関する意思決定と呼ぼうが、構わない。ただし、後者の呼び方によって混乱がもたらされなければ、だが。
- 「人的資本」が他の資本と違うのは、労働抜きでは所得をもたらさないこと。他の資本は保有しているだけで所得をもたらす。
- 労働はまた、不効用をもたらす。
- あくまでも推測だが、ゲーリー・ベッカーらが「人的資本」という用語を好んだのは、「人的資本」と「実物」資本が同じものならば、労働と資本の衝突は起こり得ない、というイデオロギー的な意味合いもあったのではないか。
一方、ミラノヴィッチがリンクしたエントリで、Roweは以下の点を指摘している。
- 人的資本は事前の投資が必要という点で、土地資本と似ている。
- ある土地の生産性が別の土地より高い場合、その理由は、投資額が大きいためかもしれず、土地そのものの性質によるものかもしれない。労働も同様。例えばRowe自身に如何に投資したとしても、偉大なホッケー選手には決してなれない。従って、人的資本は労働と等価ではなく、「人的資本」を「技術」と言い換えるのは重要なポイントを外していることになる。
- 労働による不効用は、人的資本の高低に関係ないので、それがどうした、という話に過ぎない。
- 廃止すべきは、むしろ「金融資本」という用語ではないか。それは借用書の小洒落た別名に過ぎない。消費ローンがあれば、資本や投資がまったくない世界でも借用書は存在し得る。「金融資本」は資本ではない。
この件にはクルーグマンも反応し、(近々同僚となる)ミラノヴィッチの見解を支持して、裕福な子供は工場や建物を相続もしくは購入できるが、奴隷契約やアンドロイドの発展抜きで労働者の技術を買うことはできない、と述べている。クルーグマンはまた、子供を人的資本として扱いその税控除を訴えた保守派をミラノヴィッチを援用して批判したElizabeth Stoker BruenigのNew Republic記事も取り上げている。
なお、このBruenigの記事には、Roweが直近エントリで世代重複モデルを持ち出して反論している。Roweはまた、自分が勤務するカールトン大学のモットーだという「Ours the task eternal -- investing in human capital」を表題としたエントリでクルーグマンにも反論し、資本は法的権利に関係なく資本として存在するものであるし、将来の収入を担保に金を貸すことにより、その人の労働技術からレントを得ることができる、と指摘している。
そのほか、ノアピニオン氏にもこの件に反応し、それにさらにMaxSpeakというブロガーが反応している(続き、さらにその続き)。