中央銀行は最終損益を気にすべきではない

とProject Syndicateでバリー・アイケングリーンが書いている(H/T Mostly Economics)。共著者はマインツ大学のBeatrice Weder di Mauro。


同論説ではまず、中央銀行の最終損益を気にしたことによって金融政策が変更された例として、先月のスイス国立銀行為替相場ペッグ政策の放棄を挙げている。その政策変更の動機は完全に政治的なものであった、と論説では観測している。
スイス国立銀行は、昨年、金準備を20%にまで増やし、金融政策の自由度を減らそうという「金イニシアチブ」の論議に巻き込まれた。その動きは、スイス国立銀行からの移転により財政のかなりの部分を賄っているスイス各州が、同銀行が損失を計上する事態を未然に防ごうとするものであった。「金イニシアチブ」は否決されたものの、1月にはユーロの減価により議論が再燃し、怒った各州の指導者によって中央銀行の独立性が脅かされることが懸念された。
アイケングリーンらに言わせれば、本来の解決策はスイスプランのユーロペッグの放棄ではなく、州の財政の仕組みを変えることにあった。中央銀行が利益を十分に気にしていないと不平をこぼす人々を無視するためにこそ中央銀行の独立性はあるのではないか、と彼らは言う。


彼らは中央銀行の責務を優先順に以下のように並べている。

  1. インフレ目標の達成
  2. 生産ギャップを閉じるのを助けること
  3. 金融の安定の確保
  4. バランスシートを気にする
    • これは金融政策の目標としては、上の3つより遥かに下のせいぜい4位に過ぎない

また、これらの目標を達成するためのツールが限られていることも、優先順位と同じくらい重要である、と彼らは指摘する。従って、優先順位で4位の目標を考慮することにより政策が決定されるというのは、まさに本末転倒というわけだ*1。優先順位をきちんと理解した中央銀行は、デフレを防ぐ、もしくは為替相場が危険なほど増価するのを防ぐために、損失を計上してきた。例えば、チリ、チェコイスラエル中央銀行は、政策を損なうことなく長期に亘ってマイナスの純資本の下で運営が行われた。
中央銀行はプロフィットセンターではない、とも彼らは指摘している。もちろん利益を上げるに越したことはないが、それが他のより重要な政策目標を犠牲とするならば、その限りではない。その場合、政府が郵便事業の損失をカバーするように、中央銀行は資本の注入を政府に要請すべき、と彼らは言う。
そう考えると、スイス国立銀行の動きは理解に苦しむ、とアイケングリーンらは述べている。スイスフランの急激な増価は、スイス経済をデフレと不況に叩き込む危険を孕んでいた。欧州中央銀行(ECB)の量的緩和の開始によって、ユーロのウェイトが高いスイス国立銀行のバランスシートの毀損の危険性は高まったものの、そのことは物価と金融の安定を追求する責務を放棄する言い訳にはならない、と彼らは言う。


そのユーロ圏での量的緩和の開始においても、南欧国債の値下がりによるECBの損失を懸念する声がある、と論説では伝えている。そのためECB理事会は、購入した国債の8割を各国の中央銀行のバランスシートに計上することにしたという。そうすればそれらは各国政府の責任になるから、とのことである。しかし、そうした8:2の損失負担の分担は、ドイツに量的緩和を呑ませる上では有用かもしれないが、ユーロ圏の金融政策の統一性という面では疑問を生じせしめる、と彼らは指摘する。デフレ克服のためにECBが「何でもやる」と言っている状況下でのそうした枠組みは、徒らに話を複雑化させるだけではないか、と彼らは言う。その点でECBは、政策の優先順位の見極めを誤ったスイス国立銀行と同じ過ちを犯しているのではないか、というのが彼らの問題意識である。


論説ではその他、米国での議会によるFRB監督強化の動きにも懸念を示している。中央銀行は利益を上げた時には穏やかに称賛され、損失を計上した時には声高に非難されるが、中銀は称賛の声も批判の声も等しく無視すべきである――特に遥かにもっと重要な政策課題を世界の金融政策担当者が抱えている現在においては――とアイケングリーンらは述べて論説を締め括っている。

*1:喩えるならば、ロボット三原則の三番目の原則を優先して、自分の身を守るために人間を犠牲にしたり命令を無視したりするロボットのようなもの、ということになろうか。