ミクロ的基礎付けの無い研究は学界から排除されているのか?

という点についてサイモン・レン−ルイスとDavid Andolfattoが軽く論争している。レン−ルイスは排除されていると言い、Andolfattoはそんなことはない、と言う。

以下はAndolfattoの自ブログでのレン−ルイスへの反論の一節。

...Simon Wren-Lewis complains (again) about something that may or may not have been true at one time:

My first complaint is that too many economists follow what I call the microfoundations purist position: if it cannot be microfounded, it should not be in your model. Perhaps a better way of putting it is that they only model what they can microfound, not what they see. This corresponds to a standard method of rejecting an innovative macro paper: the innovation is ‘ad hoc’.

"Too many" economists. Like who, Simon? Give us names! A long list of names.
I don't think he can do it. He can't because all economic models and theories embed ad hoc assumptions. (Btw, I've addressed this complaint before, here.) So why does he say things like this? I'm not entirely sure.
(拙訳)
・・・サイモン・レン−ルイスが(またもや)一時期は実際にそうだったのかもしれないしそうでなかったのかもしれないことについて不平をこぼしている。

私がまず文句を言いたいのは、ミクロ的基礎付け純粋主義と私が呼ぶ立場にあまりにも多くの経済学者が立っている点だ。ミクロ的基礎付けの無いものモデルに立ち入るべからず、という主義だ。もっと良い表現をするならば、彼らは見たものではなく、ミクロ的基礎付けができるもののみモデル化する。このことは、革新的なマクロ経済学の論文を却下する際に、その革新は「アドホック」だと言って却下する標準的なやり方と呼応している。

「あまりにも多くの経済学者」ね。例えば誰のことかな、サイモン? 名前を挙げてくれないかな! きっとそのリストは長いんだろうね。
彼には名前を挙げることはできまい。彼がそうできないのは、すべての経済モデルや理論にはアドホックな前提が埋め込まれているからだ(ちなみにこうした不平について僕は以前に取り上げている)。だったらなぜ彼はこんなことを言うのかな?僕にはまったく分からない。


この後Andolfattoは、レン−ルイスの主張を取り上げた「いつもの意地悪爺さん(My favorite curmudgeon)」ことクルーグマンを例のごとく悪口を交えて批判した後で*1、次のように締め括っている。

But enough of Krugtron. As for Wren-Lewis, I think his main message is for young economists: do not to be led into thinking that every macroeconomic theory needs to be "microfounded." That's fair enough advice. But by the same token, young economists should also not feel threatened or bullied into thinking a priori that social phenomena are beyond the reach of economic theory--especially when such sermons are delivered by bitter Nobel-prize economists still suffering from the intellectual wedgies applied to them in their youth.
(拙訳)
クルーグトロン*2のことはもういいだろう。レン−ルイスについて言えば、彼の若手経済学者向けの中心的なメッセージは、すべてのマクロ経済理論が「ミクロ的に基礎付けられている」必要があるという考えに引き入れられてはならない、ということだと思う。その助言については文句は無い。しかし同様に、社会現象は経済理論の手の届く範囲外にある、という考えをアプリオリに受け入れるよう若手経済学者が無理やり脅されたと感じるようなことがあってはならない。特に、自身が若いときに受けた知的な刷り込みの影響から未だ逃れられない辛口のノーベル賞経済学者からそうした小言が繰り出される時は要注意だ。


Andolfattoはレン−ルイスの元エントリにも同趣旨のコメントを書き込んでいる。それに対しレン−ルイスは、後続のエントリで、そうなら良かったのだが、他のマクロ経済学者と会話した経験から言うとそれは当たっていない、と応じている。

*1:レン−ルイスやクルーグマンはミクロ的基礎付けを持つ経済理論で説明できないこととして名目賃金の粘着性を挙げたのだが、Andolfattoはそうした説明を行った研究が幾つも存在していることを指摘し、クルーグマンはそれらの研究を知らないのではないか、と暗に揶揄している。

*2:ここで取り上げたニーアル・ファーガソンクルーグマンをそう呼んでいる。ただし、名付け親のノアピニオン氏が最初にそう呼んだ時は否定的な意味ではなかった(実際、ファーガソンはノアピニオン氏をクルーグマンの取り巻きに認定している)。元ネタは日本のTVアニメを編集して米国向けに仕立て上げたボルトロンとの由。