マクロ経済学はすべて宗教?

昨日紹介したStephen Williamsonのエントリクルーグマンへの反論として書かれたものだが、クルーグマンのカリブレーション批判への反論もなされている:

Part of what the calibration people were reacting to, was a view among econometricians that quantitative work was about "testing" theories. The problem is that any macroeconomic model is going to be wrong on some dimensions. To be useful, a model must be simple, and simplification makes it wrong in some sense. Subjected to standard econometric tests, it will be rejected. Models that are rejected by the data can nevertheless be extremely useful. I think that point is now widely recognized, and you won't find strong objections to it, as you might have in 1982.
(拙訳)
カリブレーションを推進する人々が念頭に置いていたのは、定量的な研究は理論を「検定」するもの、という計量経済学者の間に見られる見解だった。問題なのは、すべてのマクロ経済モデルはどこか間違っている、ということだ。モデルを有用なものにするためには簡単なものにする必要があり、簡単化することはモデルをある意味で間違ったものにする。そうしたモデルを標準的な計量経済学の検定にかけたら、棄却されることになる。しかしながら、データによって棄却されたモデルが極めて有用なこともあるのだ。その点は今や広く認識されており、1982年当時*1のような強い反対はもう無いだろう。


これに対し、あるコメンターが「データによって棄却されたモデルは科学ではなく宗教であり、歴史のゴミ箱に葬り去られる運命にある」とコメントしたところ、Williamsonは「ならばマクロ経済学はすべて宗教であるが、間違いなくゴミ箱行きとはなっていない」と応じている。


また、Williamsonは、マクロスキーのt値の過大視批判(cf. ここここ)を援用して従来の計量経済学の問題点を指摘すると同時に、プレスコットについて、定量的実証分析に関し優れた能力を持っている、と褒めそやした。それに対し、あるコメンターがWilliamsonの以前のプレスコット批判(=非現実的なほど過大な労働の弾力性を前提とする主張にプレスコット固執した)を持ち出し、しばらくコメント欄でプレスコットを巡る議論が続いたが、そこに何と当のプレスコット本人が降臨し、以下のようなコメントを残した:

Clarification:

At Minnesota in the 1970s and 1980s, there was not agreement as to methodology, but there was mutual respect. Neil Wallace said no issue in monetary economics will be resolved by a number. My view was that most, not all, aggregate issues must be resolved by a number. I have the greatest respect for Neil, Tom, and Chris. I think the respect is mutual. Incidentally, Chris Sims attacked Tom Sargent's methods for estimating macro models. I know they have the greatest respect for each other as economic scientists.

There was market in ideas at Minnesota. No required courses, so this was not a mechanism to teach the past. If no student showed up to your course, it was evidenced that you were out of it. This rule lead to people keeping current and looking ahead. Competition fosters the development of the sciences. Politics retard their development.

Edward C. Prescott

(拙訳)
きちんと説明しておく:
1970年代と1980年代のミネソタ大学では、方法論に関する合意は存在しなかったが、お互いへの敬意は存在していた。ニール・ウォレスは、データの数字によって解決できる金融経済学の問題は存在しない、と主張した。私の見解は、すべてではないものの、大部分のマクロ経済の問題は数字によって解決すべき、というものだった。私はニール、トム、そしてクリスに最大限の敬意を払っている。彼らもまたそうだと思う。ちなみにクリス・シムズはトム・サージェントのマクロ経済モデルの評価手法を攻撃していた。彼らがお互いに対し経済学の科学者として最大限の敬意を払っていることを私は知っている。
ミネソタでは学問の市場があった。必修課程は無かったので、過去のことを教えるのに適した仕組みとは言えない。もし自分の課程に生徒が誰も来なかったら、市場の外に弾き出された証拠、というわけだ。この仕組みにより、教員は、現在の先端研究、および将来有望な研究に重点を置くようになった。競争は科学の発展をもたらす。政治はその発展を阻害する。
エドワード・C・プレスコット


このように、コメント欄で議論になったプレスコットの以前の主張についてではなく、エントリ本文で取り上げられたミネソタ大学の状況についてのコメントになっている。もちろん本人かどうかの確証は無いが、内容的にみてなりすましの可能性は低い気もする(Williamson自身もそれが本人のものであることを前提にした後続コメントを書いている)。

*1:コメント欄であるコメンターが1982年に何があったのだ、と訊ねたところ、別のコメンターがこの論文のことだろう、と回答している。