すばらしい新世界

3/5に紹介したブランシャールの3/4付けIMFブログエントリで予告されていた今後のマクロ経済政策に関する3/7-8のコンファレンスが成功裏に終わったようで、既にあちこちでそのセミナーに関する反響が見られる。ブランシャール自身は3/13エントリでそのコンファレンスの彼なりの総括を9つのポイントにまとめている(動画はこちら)ので、以下にそれを拙訳で紹介してみる。

  1. 我々は危機後にすばらしい新世界(brave new world*1)に突入した。それは、政策策定という面ではこれまでとまったく違った世界であり、我々は兎にも角にもそれを受け入れなくてはならない。
     
  2. 市場と国家の役割についての昔からの論争において、振り子は――少なくとも少しは――国家の方に振れた。
     
  3. 危機は、マクロ経済学に関連した歪みが、それまで思われていたよりも数多く存在することを明らかにした。我々は、そうした歪みを、これまではミクロ経済学者の守備範囲だとして無視してきた。ファイナンスマクロ経済学に組み入れて統合しようとしている現在、我々は、ファイナンスの枠内の歪みがマクロに関係することに気付きつつある。金融機関の機能や機能不全、および意思決定についての説明に際しては、団体や主体(エージェント)のインセンティブや行動を扱ったエージェンシー理論が必要となる。規制とエージェンシー理論を規制当局に適用することが重要となる。行動経済学とその従兄弟である行動ファイナンスも同じく重要である。
     
  4. マクロ経済政策は多くの目標と多くの手段(我々が使用する政策ツールや、政策を設定する経済変数)を有している。コンファレンスでは様々な事例についての議論が交わされたが、ここではそのうちの2つを取り上げる。
    • 金融政策はインフレ率の安定だけではなく、生産と金融の安定を目標リストに加えるべきである。また、マクロプルーデンシャルの方策を手段のリストに加えるべきである。
    • 財政政策は単なる「G引くT」とその「乗数」(政府支出や税金の変化が経済の他の部分に影響を与える比率ないし係数)以上のものである。潜在的には多数の手段が存在し、各手段は経済や他の政策の状況に応じて独自の動学的作用を発揮する。ボブ・ソローは、財政政策に関する議論を、正しい乗数は何かという議論に還元してしまうことは、この問題を考える上で有益では無い、ということを強調した。
       
  5. 我々は多くの政策手段を有しているかもしれないが、その使用法に自信を持っているわけではない。そうした手段がどういったもので、どのように使うべきで、それが機能するか否かについて確信を持てない場合が多い。これについても、多くの事例がコンファレンスで討議された。
    • 我々は流動性が如何なるものかを完全に把握しているわけではないので、流動比率という指標は、この未知なるものの理解を一歩押し進めてくれる。
    • 明らかに、資本規制が機能すると信じる人もいれば信じない人もいる。
    • ポール・ローマーは、一連の金融規制を適用してそのまま変更を加えなければ、市場はやがてそれを迂回する方法を見い出し、10年後にはまた金融危機を迎えることになる、と主張した。
    • マイク・スペンスは、自主規制と規制との相対的な役割について論じた。両方が必要であるが、どのように両者を組み合わせるべきかは極めて不明確である。
       
  6. こうした政策手段は潜在的には有用なものであるが、その使用は数多くの政治経済問題を惹起する。
    • 政策手段の中には政治的に使用が困難なものもある。国境を越えた資本の流れに対し、複数の国家に跨る規制の仕組みを構築することは非常に難しい。一国内においても、ある種のマクロプルーデンシャルな政策手段は、特定の部門や個人ないし企業の集団を目標に据えることによって機能するので、それらの対象グループからの強い政治的反発を招くだろう。
    • 政策手段は誤用されることがあり得る。その数が多いほど、誤用の対象となり得る範囲も広がる。討議から明らかになったのは、資本規制には経済的に合理的な理由があるかもしれないが、政府が正しいマクロ経済政策の代わりにそちらを選んでしまうこともあり得る、と多くの人が考えていることであった。ダニ・ロドリックは、経常収支黒字を増加させることなしに貿易財――国家間で貿易可能な財やサービス――の生産を増やすために産業政策を使うことを主張した。しかし実際のところ、我々は産業政策には限界があることを知っているし、その限界は消えて無くなったわけではない。
       
  7. ここからどう進むべきか? 研究という面では、面白い未来が待っている。我々が取り組むべき数多くの課題が存在している。即ち、マクロ経済問題に対し、ジョー・スティグリッツのいわゆる正しいミクロ的基礎付けをすることだ。
     
  8. 政策という面については、より困難な未来が待っている。新しい政策ツールの使用法を我々が良く知らないこと、そしてそれらの誤用の可能性があることを前提とした場合、政策当局者はどのように進むべきか? 我々はどこに行きたいかはそれなりに分かっている半面、そこに到達するには段階的に進むしか無い。
    • 我々は、ある日突然インフレ目標を放棄して、5つの目標と7つの手段を持つ経済システムに移行するようなことはできない。そうした移行を行う方法は知られていないし、それを行うことが賢明だとも思えない。我々にできるのは、マクロプルーデンシャルな政策手段を、それがどのように機能するかを確認しながら、段階的に導入することである。
    • 国際金融システムにおける特別引出権(SDR)を増やすことを考えてみよう。その場合、まずは民間SDR債券市場を創設して、IMFがSDR債を民間部門に向けて発行することが可能かどうかを探り、それが可能だと分かったならば、システミックな危機の際にそれを発行して資金調達を行う、といった段階的な手順を踏むことになる。
    • プラグマティズムは極めて重要である。例えばAndrew Shengが中国の適応的な成長モデルを論じた際も、それが基調的なテーマとなった。我々は物事を慎重に試し、それがどのように機能するか確認していかなくてはならない。
       
  9. 我々は希望的観測に走ることを抑制しなければならない。我々が予期してない新たな危機が今後も発生することだろう。また、最善の努力を払っても、従来型の危機が再び発生するかもしれない。それがAdair Turnerが信用循環を論じた際のテーマであった。エージェンシー理論と正しい規制を活用すれば、信用循環は無くせるのか? それともそれは人間の本質に根差したものであり、何をしようとも、やがては何らかの形で舞い戻ってくるものなのか?


なお、このブログエントリの最後で、ブランシャールは次のように断っている。

I was asked whether the conference was “Washington Consensus 2“. It was not intended to be and it was not. The conference was the beginning of a conversation, the beginning of an exploration, and we look forward to your contributions.
(拙訳)
今回のコンファレンスは「ワシントンコンセンサスその2」なのか、と訊ねられた。そうした意図は無かったし、実際そうでは無かった。コンファレンスは対話の始まり、探求の始まりであり、今後の皆さんからの貢献に期待している。

*1:cf. この小説のタイトル。