リカードの中立命題を巡る紛糾

最近、欧米の経済ブロゴスフィアで、時ならぬリカードの中立命題を巡る論争が巻き起こった。


きっかけは、世銀チーフエコノミスト兼上級副総裁Justin Yifu Lin(林毅夫)が「Beyond Keynesianism and the New Normal」と題された小論で、穴を掘って埋めるようなケインズ政策ではリカードの中立命題の罠に陥ってしまうので、いかに将来の生産性を高めるような財政政策を実施するかが大事、と説いたことにある*1
そして…

  1. そのLin論文にAntoinio Fatásが噛み付き
  2. そのFatásの批判にEconospeakのpgl賛同し
  3. それをEconomist's ViewでMark Thomaが取り上げ
  4. そのエントリを読んだクルーグマン以前のブログエントリを持ち出してLinを揶揄し
  5. それを受けてNick RoweがLinを弁護し
  6. それに対してクルーグマンRoweはポイントがずれていると反論し
  7. Stephen Williamsonが以上の経緯をまとめつつ(例によって)ケインジアン批判し
  8. そのWilliamsonにMark Thomaが異議を唱えた*2

というのがこれまでの大まかな流れである。


上記の各エントリを読むと、各人が各様のことを述べているので、議論が収束せず発散しているように見える。小生なりに乱暴なまとめをさせてもらうと、そうした議論の混乱を招いているのは

  • 一括税(lump sum taxation)をどのように考えているか否か(*)
  • そもそもリカードの中立命題をどう定義するか

の2点を巡る認識の齟齬にあるように思われる。


このうち一括税についてであるが、上記の項番4でクルーグマンが持ち出した2009/4/6のエントリに対して、その翌年にDavid Andolfattoが(例によって悪態をつきながら)批判し、一括税を前提にした簡単な2期間モデルによってクルーグマンの説明が崩れることを既に指摘している(*)。なお、一括税がリカードの中立命題の成立の前提となることは、項番7のWilliamsonを初めとして、上記の複数の論者が指摘している*3

それに対し、どうもクルーグマンは一括税を前提にしてはいないいるにしても、それを時間分散させたうちの現時点近辺のみを取り出して考えているように小生には思われる。というのは、その2009/4/6エントリを書く2ヶ月ほど前にクルーグマンは、ここで紹介したようなコーエンとの議論の応酬を行っているのだが、そこでは将来の複数年に跨る税金によって現在の一時的な財政刺激を賄う、という前提に基づいて初年度の財政刺激策の効果を問う議論を展開しているからである(*)。もしその前提と議論をそのまま引き継いでいるならば、項番4のクルーグマンは、そもそもWilliamsonやAndolfattoがイメージしているリカードの中立命題とは別の話をしていることになる(*)。


(*) [2011/3/24訂正]当初小生は、lump sum taxationを、文字通り一回で徴収される税金と捉えた。しかし、実は、リカードの中立命題で言うlump sum taxationは、所得に応じて課税されるような税金とは異なる定額税という意味で使われ、一回で徴収されるか複数回で徴収されるかはあまり関係無いと考えられる(むしろ、そうした徴収のタイミングが無関係というのがまさにリカードの中立性が意味するところと言える)。そう考えた場合、クルーグマンが一括税を前提にしてはいないという当初の記述は誤りなので、上述の通り数箇所を訂正した(取り消し線が削除部分、斜体が追加部分)。


ただしクルーグマンは、その後の項番6でRoweに反論する際、今度は日本の流動性の罠を説明するために自分が1998年に構築したモデル*4を持ち出している。そのモデルは2期間モデルであり、第2期では完全雇用が達成されることになっている半面、第1期では流動性の罠に陥っている。従って、このモデルでは、第1期で財政出動を行っても、消費は両期で変化することは無く、クラウディングアウトは一切発生しない、とクルーグマンは説明する。というのは、第2期の消費は完全雇用水準なので変化することが無く、そして第2期と第1期の消費はオイラー方程式で結び付いているため、第1期の消費もまた変化しないからである*5


これを受けて、要はリカードの中立命題においては完全雇用均衡も前提となるわけだね、と話をまとめたFatásに対しRoweは、いやそれは違う、リカードの中立命題にはいろんな前提があるが、完全雇用均衡はその中に入っていない、と猛反発した

ただ、Roweクルーグマンのエントリには「Thanks Paul. Yep.」というコメントを残して納得した様子を示しているので、その一方でFatásを批判するのは不可解に思える。というのは、一見するとクルーグマンは、流動性の罠ではリカードの中立命題は成立しない、と言っているように思われるからである。もしそうならば、Fatásは単にそのクルーグマンの主張の対偶を取って、リカードの中立命題が成立するならばその経済は流動性の罠には嵌っていない(=均衡状態にある)、と言っているに過ぎないことになる。この点についてRoweにコメント欄で質問し、また改めて彼のエントリを読み直してみたところ、彼の考えるリカードの中立命題は

財政支出をすれば民間が将来の増税を予想して消費をその分だけ減らし、総需要は変化しない

という巷間良く見られる定義には当てはまらず、あくまでも

税金で賄われる財政支出と、借り入れで賄われる財政支出とは、等価である

というものであることが分かった。後者の定義では、財政支出によって総需要が増加したとしても、別にリカードの中立命題が破られたことにはならない。
実際、Roweは小生のコメントに対し

I don't think that Paul Krugman asserted that. Instead, he asserted that even if Ricardian Equivalence holds, temporary increases in government spending will increase employment in a liquidity trap.
(拙訳)
ポール・クルーグマンがそのように(=流動性の罠ではリカードの中立命題は成立しないと)主張したとは思わない。そうではなく、彼は、たとえリカードの中立命題が成立するとしても、財政支出の一時的な増加は流動性の罠において雇用を増加させる、と主張したのだ。

と応じており*6クルーグマンも前者の定義では考えていない、という認識を示している。

*1:この主張は小野善康氏の持論を想起させる。

*2:Williansonが、リカードの中立命題はケインジアンが思うほど脆いものではない、と書いたのに対し、デビッド・ローマーの教科書を引いて、理論的にも実証的にも問題が指摘されている、と反論している。ちなみにWilliamsonは、リカードの中立命題の前提のうち(1)平均的消費者の予測可能性と(2)信用市場の完全性の2つを取り上げ、(1)消費者はそれほど馬鹿ではない(2)信用市場で政府はそれほど民間に対して優位性を保持しているわけではない(cf. ここ)とそれらの前提を擁護している。

*3:項番7のWilliamsonエントリから該当部を引用すると:「As I tell my students, Ricardian equivalence is very special. For it to work exactly in this fashion requires a lot of assumptions: lump sum taxation, no redistributive effects of taxation (across people or generations), frictionless credit markets, etc.」
また、Fatásは、項番2のエントリに対するフォローアップエントリで、「The Ricardian Equivalence proposition requires many assumptions (perfect foresight, no financial constraints in the private sector, all taxes are lump sum, etc). 」と書いている。
さらに、そのFatásのフォローアップエントリを批判したエントリのコメント欄Roweは、「Yep. REP assumes future money supplies stay the same. And lump-sum taxes. Etc......」と書いている。

*4:cf. ここ。なおクルーグマンは、同モデルが完全予測、完全資本市場、不死の消費者というリカード的特性を備えていることを強調している。

*5:クルーグマンはまた、Linが提起しRoweが支持した財政支出の生産性の問題にも触れ、当該の財政刺激策が穴を掘って埋めるような生産性が低い仕事しか提供できず、実質的に所得移転と変わりないのだとしても、それとこれとはまた別の話、と述べている。

*6:その応答の際に「大丈夫かい、日本は大変なようだけど、問題に果敢に対処しているようだね」という言葉も掛けてもらった。良い人だ…。