PERを見る時の注意点

柏野雄太氏が@ITで齊藤誠氏の近著「競争の作法 いかに働き、投資するか (ちくま新書)」を取り上げている(柏野氏のブログwrong, rogue and booklogの8/23エントリ経由)。そこで柏野氏は、同書の主張を以下のように紹介している。

 さて、その「競争の作法」においては、2001年1月から2007年10月まで続いた戦後最長の「いざなみ景気」(1960年代後半の、いざなぎ景気になぞらえて付けられた名称)について、日本企業の製品やサービスが消費者に評価されているという実質がない、見せかけの景気に過ぎなかったとしています。

 その根拠として、ひとつは(a)株価の収益比率(PER)が高くとどまったまま企業収益以上の値をつけていたということ、もう1つは(b)いざなみ景気の後半3年間は実質実効為替レートが低かったので、その分普通の円安よりもさらに円安となり、日本の輸出産業の価格競争力が高まったこと、を上げています。

このうちの(b)の実質実効為替レートに基づく円安論の問題点については、このエントリをはじめとして本ブログでも何回か取り上げた*1。そこで今日は、(a)のPER(株価収益率)に基づく議論の問題点を指摘してみたい。


柏野氏は@ITの記事において、東証のHPからダウンロードしたPERの時系列データをRで描画している。そして、2000年前後のPERが高止まりした――むしろ跳ね上がった――現象を指摘し、齊藤氏の主張の裏付けとしている。

ただ、当時の状況を思い起こしてみると、その時期は銀行の不良債権処理が漸く最終段階に差し掛かったところで、銀行が相次いで巨額の赤字決算を計上していた。実際、東証決算短信集計結果のデータを見てみると、2002年3月期の金融業を除く東証全銘柄の当期純利益集計値(単独決算ベース)が4590億円の赤字だったのに対し、金融業を加えるとその赤字が1兆1718億円に膨れ上がっている*2。柏野氏の使用した東証の「長期データ(総合)」一部上場銘柄のPERは金融業を含んでいるので、そうした特殊要因を反映してしまっているわけだ。


この特殊要因を排除するため、金融を除いたPERの推移を見てみたいところであるが、あいにく東証の業種別PERは直近1年分しか掲載されていない。そこで、時価総額と金融を除いた決算短信集計値との比率として便宜的にPERを計算してみた*3。それが以下のグラフである。

これを見ると、やはり2000年にPERが500倍まで跳ね上がっており、金融業を除いたとしても、当時は株価が過大評価されていた、という齊藤氏の主張は依然として有効であるかのように見える*4


しかしここで注意すべきは、PERの分母として当期純利益を用いている点である。経常利益や営業利益を用いるとどうなるだろうか? 試しにPERの分母をそれらの利益に代えて描画してみたのが、以下の2つの図である。


これらを見ると、2000年前後には確かに一つの山になっているものの、期間全体を通して見ると、他の山に比べてそれほど高いわけではない*5。営業利益ベースでは、むしろ直近の方が高い。


また、PSR(株価売上高倍率)を描画すると以下のようになる。

この指標では、2000年前後よりはリーマン・ショック前年の方が株価が割高ということになる。


ここで、当期純利益の定義をもう一度思い起こしてみよう。当期純利益は経常利益に特別損益が加算されたものであるが、特別損益というのは、資産の償却などの一時的な評価損などを計上する勘定項目である。一方、売上高や営業利益は本業の稼ぎを示すものと言える。齊藤氏はITバブル当時に日本の製品やサービスが消費者に評価されていなかった根拠としてPERを用いたわけだが、その目的に用いるためには明らかに前者よりも後者の方が適切なように思われる。


一例を見てみよう。東芝の2000年3月期単独決算を見ると、退職給与引当金過年度分繰入額として3000億以上の特別損失が計上されている。そのほかフロッピーディスクコントローラ訴訟の1000億円超の和解費用などもあり、経常利益ベースでは163億円の黒字を何とか確保していたのが、税引前純損失で4000億円以上の赤字に転落している(法人税、住民税及び事業税と法人税等調整額を加算した当期純損失は2445億円)。また、2001年3月期決算では経常利益を950億円まで増やしたものの、今度は厚生年金基金過去勤務費用償却額で1000億円超の特別損失を計上し、当期純利益は264億円に留まっている。このように、特別損失には、制度変更の過渡的な損失負担や、マクロ経済環境に起因する厚生年金の損失負担などによってかなりの額が計上されることが間々ある。そうした負担と、消費者の製品やサービスの評価との関連が乏しいのは自明かと思われる。従って、当期純利益ベースのPERの変動を以って日本企業の問題点を語るのは、議論としてややお粗末の感が否めない。

*1:そのエントリで小生が挙げた論点の一つは、デフレという経済の悪化に伴う現象がもたらした実質ベースの円安を、名目レートの切り下げによる円安と同等に考えて良いのか、という点であった。ちなみに、wrong, rogue and booklogの8/24エントリでは土居丈朗氏の村上龍氏のメールマガジンへの回答が引用されているが、そこで土居氏は現下の円高を促す唯一の国内要因はデフレであると喝破している。
また、柏野氏は@ITの記事でRで描画した実質実効為替レートのグラフを示しているが、その図を見ると、2000年代後半の実質実効為替レートの円安への振れは1970〜1980年代に比べて程度・期間共に限られたものになっており、この時期が特殊だったという主張の十全な裏付けには必ずしもなっていないように思われる。

*2:平成15年3月期集計資料の前期分。

*3:決算短信集計値は長期時系列データを確保するため、単独決算ベースの一部・二部・マザーズ合計の値を用いた。株式時価総額もそれに対応した全上場銘柄の値を用いたが、こちらは金融業も含んでいる。従って、この簡易PERでは分母と分子の銘柄ユニバースが対応していない。また、東証発表のPERは、Q&Aに記されている通り単純型だが、こちらは加重型ということになる。なお、東証時価総額のデータは月次であるが、ここでは、対応する年度末の決算が出揃っていると想定される各年の7月の時価総額を用いた。

*4:ここでは赤字決算についてもそのまま値を算出しているため、2002年がマイナスに大きく振れている。一方、東証発表のPERでは、分母が赤字の場合は欠損値としている。ちなみに柏野氏は、「2003年前後は欠損してよく分かりませんが、それでも一度高騰したPER値が戻っていたことが分かります。」と記述しているが、これはそうしたデータの特性を誤解した記述のように思われる。また、柏野氏はPERの単位が「%」であるかのように記述しているが、これはもちろん「倍」が正しい。

*5:ただし、このブログでの齊藤氏の主張の紹介によると、そもそも氏は1990年代もPERが割高だった(株価が落ちきっていなかった)という考えのようなので、その主張を敷衍すると、それでもやはり割高、ということになるのかもしれない。[追記]また、バブル期やその直後には銀行株の時価総額の比率が今よりも高かった(確か一時期全体の1/4くらいに達していた)ことを考えると、時価総額からもきちんと金融株を外して補正した場合、バブル期の山は相対的にもっと低くなると思われる。その場合、一つの解釈は、バブル後に株価が落ちきっていなかったという齊藤氏の考え方がますます説得力を持つ、というものだが、逆の解釈をすると、金融を除けば実は株価のバブルは意外に限定的だった、との見方も成立し得る。