コーエン「総需要喚起策の総論は賛成、実効性と実行可能性は疑義あり」

6/1エントリで触れたが、タイラー・コーエンが5/31エントリで総需要喚起政策への支持を表明している。しかし同時に、その効果への疑問も拭いきれない、ということも述べている。その点では、昨日紹介したEdward L. Glaeserや、5/30エントリで取り上げたAndolfattoやマンキューの論考に見られるのと同様の不可知論的な立場に立った上での消極的支持と言える。
少し嫌味な言い方をすると、非ケインジアン経済学者のこうした発言は、自分の知っている経済学では確たる答えを出せないので周章狼狽しているが、かと言って実際に発生してしまったこれだけの経済学上の重要問題にまったく口を閉ざすわけにもいかないので、とりあえず注意書きを並べてみた、という感じに受け取れなくも無い。良く言えば、その分、知的に正直だ、という言い方もできるかもしれないし、また、シカゴ学派の最右翼のように頭ごなしにケインズ経済学を否定しない点は、柔軟性を示しているとして評価されるべきかもしれない。


以下はそのコーエンのエントリの拙訳。

マット・イグレシアスが次のように書いている

我々は歴史上かつてないほど高い生産能力を有している。世界のどの国においてもサプライサイドの政策における改善すべき点はごまんとあるが、それは今に始まったことではない。今に始まったことは、需要不足であり、東京、フランクフルト、ワシントン、ベルリン、そしておそらくはロンドンの指導者が、人類の経済状況を改善するという点でこれまでで最も興奮させられるまったく新たな機会を目前にして、停滞とディスインフレを許容しようとする姿勢である。

この引用部は、現在の不景気について、ケインジアン一般の総需要という観点からの見方を代弁したものと言えよう。
最初に断っておくと、イグレシアスやその他の大勢のケインジアンと同様、私は、総需要を金融政策を通じて底上げするというスコット・サムナー的見解に全面的に賛成する。そこには実際上の意見の不一致は無いが、ただ、そうした手段(もしくはもっと大規模な刺激策)がどの程度効果を発揮するかについては議論の余地がある。
世界で不確実性が増した、という単純なモデルを考えてみよう。不確実性上昇の最初の原因は米国の金融危機だったが、今の原因はギリシャとユーロであり、スペインの動向や欧州がどの程度協調できるのかという問題である。断っておくが、そうしたことだけが現在の状況を招いた原因であると言うつもりはないし、それが主要因ですらないかもしれない。ここでは単なる例え話として受け取って欲しい。
不確実性が上昇すると、投資家は投資を手控え、待ちに入り、オプション価値を行使する。総供給は低下し、雇用も低下する。結果として総需要も低下するが、その際、名目総需要だけでなく実質総需要も低下する。現状を覆う不確実性が解消されない限り、経済は停滞を続ける。
注意すべきは、異時点間の代替という考えからすると、その場合でも財政政策の余地は存在する、という点である。雇用されていない労働力の存在により、十分に微調整された財政政策を用いれば、遊休資源によって以前より低コストで新たな道路を建設することができる。しかし、たとえその財政政策が良い政策だとしても、景気回復――少なくとも十分な乗数効果を伴った景気回復――をもたらすことは無い。
また、金融政策による景気対策の余地も存在する。(上述のように)実質総供給と実質総需要の両者が低下しているので、名目経済変数にも低下圧力がかかっている。積極的な金融政策、あるいはその点について言えば貨幣流通速度を増すような財政政策は、そうした過程の負の効果を和らげ、雇用の2次的な低下を抑えることができる。
私は景気対策としての総需要政策に全面的に賛同する。ただし、諸々の理由により、一般に財政政策よりは金融政策の方が良いと思う。その点では私と意見を異にする人がいたとしても、金融政策はいずれにしろ最後には発動されるのだ、と指摘すれば十分かと思う。
とは言うものの、金融政策による景気対策も景気回復をもたらすことはないし、世界を元通りにすることも無い。それは単に損失を限定するだけである。我々は依然として不確実性が解消するのを待たなくてはならない。
ケインジアンのブロガーたちが書いたものを読んでいると、説明不可能な弱さ、臆病、愚かさ、といったものだけが、政策によって確実な景気回復をもたらすのを阻んでいる、という印象を受ける。ケインジアンは、自分たちの政策提言が実行に移されない理由に関してはきちんとした理論を持ち合わせていない。せいぜい、民主党は「共和党の愚昧」ウィルスに罹ってしまった、と言うくらいである(これはサムナーにとっても都合の悪いポイントである。彼は、バーナンキは自身が金融経済について以前書いていたことを忘れてしまった、というようなことを言っている)。ここで重要なのは、その同じウィルスが世界中を席巻してしまい、その中には左派系の政党も数多く含まれている、という点である。
ローマー、ガイトナー、サマーズらの知っている経済学は、クルーグマンやデロングやThomaの知っている経済学とまったく同じである。もし、より大規模な総需要刺激策が非常に多くの点で改善効果を発揮するならば、彼らは喜んで政治的資源を大いに投入してそれを押し通し、最後に勝利を宣言することだろう。
しかしながら、彼らは改善効果が限界的なものに過ぎないと考えている。その限定的な改善効果のために次のような犠牲を払う意欲もまた限定的なものに留まっているわけだ:

  1. 長期的な政府債務を上昇させる(財政刺激策の場合)
  2. 逆効果をもたらしたり議会を苛立たせたりする可能性のある政策に自らの評判を賭ける
  3. FRBの独立にさらなる圧力を掛ける(より積極的な金融政策の場合)
  4. 以下のメリットをもたらしている現在の長短金利差を壊す
    • 短期借り入れを容易にしている
    • 主要銀行の利益率を比較的早期に回復させている

とは言っても私は、彼らはより大規模な総需要刺激策に――より積極的な金融政策を用いて――やはり挑戦すべきだとは思う。しかしそれはあくまでも個人的見解に過ぎないし、そうした主張が個人的見解に留まっていることが、彼らの行動が現状の範囲内に留まっている理由にもなっている。
一般論としては、「優秀な人々が結束して断固たる決意を固めさえすれば」という形の説明は眉唾ものと言えるだろう。