コランダーの議会証言

デビッド・コランダー(David Colander)というミドルバリー大学教授*1が、9/10の下院科学技術委員会で経済学の現状を痛罵する証言を行なったEconomist's View経由)*2


以下にその内容を簡単にまとめてみる。


はじめに
1年前に米国経済は金融の心臓発作を起こし、未だに回復途上にある。その原因や予防法について侃々諤々の議論が交わされているが、私に言わせればそれらはほとんど的外れである。喩えるならば、450ポンドで数え切れないほどの重い持病を持った男が、24時間週7日どんちゃん騒ぎができる20歳の若者のような生活を送ろうとしたようなものだ。ロケット科学者でなくても、問題が起きることが分かる。
非経済学者の中には、経済学者の非常に技術的なモデルを、発作の原因だとして非難するものもいる。しかし、問題はモデルではなく、その使用法にあった。モデルが知識に基づく常識の助けとして使われるべき時に、その代わりに使われてしまう場合が多すぎた。モデルが常識に取って代わる時、それは助けとなるよりもむしろ障害物となるのだ。


複雑系としての経済学のモデル化
自然科学の基本単位と違い、社会科学の基本単位――経済学ではエージェントと呼ぶもの――は戦略を持つ。そのためモデル化は飛躍的に難しくなる*3
ジョン・スチュアート・ミルのような初期の経済学者はそのことを認識しており、自らのモデルの利用価値について謙虚だった――モデルからはせいぜい真実の半分が得られるに過ぎない、と。そうした背景に基づき、経済学はモデルの分野と、政治経済の分野に分かれた。政治経済は科学の裏付けを持たずに、代わりにモデル分野で得られた洞察に知識に基づく常識を補足して政策提言を行なった。
しかし1900年代初めに、その2つの分野の壁は破られた。経済学者からはモデルの利用に関する謙虚さが失われ、政治的問題に直接にモデルを応用するようになった。
それは経済学にとって悲劇だった。経済学者は、分析や計算の新たな手法を用いて、困難な問題に対し創造的な答えをもたらす多様なモデルを開発しようとはしなかった。その代わり、解析がより容易なワルラス一般均衡モデルに時間を費やすようになった。需給モデル(ミクロ、マクロ)は脇に追いやられ、ワルラス一般均衡モデルですべてが説明できるとされた。しかし実際には、ワルラス一般均衡モデルは限られた現象を説明できるに過ぎず、経済全体の理解のせいぜい踏み石になるに過ぎなかった。複雑性は、現実的ではなく解析的な理由により仮定から外された。その結果、それまでさんざん研究され確立した常識的な事象一つ満足に説明できないモデル群が誕生した。
当初マクロ経済学はこうした潮流から離れ、科学的裏付けの乏しい簡略で手軽なモデル群に頼っていた。しかし1980年代に、マクロ経済学ファイナンスも「単一モデル」アプローチの手に落ちた。それにより、複雑性における重要な教訓が見失われた――複雑系でのモデルは常に破綻する、という教訓が。このことが、今回の金融危機について経済学者が社会に警告できなかった――ある者などはそんな危機など起こり得ないと社会に保証した――理由の一つである。


モデルとマクロ経済学
現在のマクロ経済学の主流はDSGEモデルである。これは、常識の助けという役割に留まっている間は有用なモデルであった。しかしやがて、マクロ経済学者の多くは、DSGEモデルはマクロ経済の理解の助けになるだけではなく、マクロ経済モデルとして有用なのだ、と信じ始めた。その結果、非線形動学モデルに関する重要な研究はなおざりにされた。経済に危機がどのように発生するか、そして危機が起きた時に政府はどう行動すべきかについては、そちらのモデルの方が遥かに助けになるであろうにも関わらず。
ロバート・ソローは、DSGEモデルを「修辞学的なごまかし(rhetorical swindles)」と呼んで警告した。それ以外にも警告した経済学者はいたが、いずれも多数派であるDSGE支持派の熱狂に呑み込まれてしまった。
効率的市場仮説についても同様のことが起きた。当初はリスク管理や金融市場の技術進歩に役立ったが、やがてモデルの限界を超えて使われるようになった。
どうしてそんな馬鹿げたことになってしまったのか? 原因は、経済学者が愚かだったためではなく、学界におけるインセンティブにあった。常識に頼っていては経済学者としての成功は期待できない。単一モデルを是も非も無く受け入れた結果、経済学界は猟犬が必要な時にショードッグを生み出すようになっていた。
誤った教育は大学院に始まる。そこで生徒たちは、如何にモデルを創造的に使うか、如何に判断を交えてモデルを使い政策的な結論を導き出すか、ということは教わらず、モデルを開発する解析的なテクニックを専ら教え込まれる。「金融や財政政策はマクロ課程で答えるべき問題としては抽象度に欠ける」「金融や財政政策について話すことはなかった。どれかのモデルに変数として紛れ込むことはあったかもしれないが」というのが一流大学院の院生の言葉である。


提案
以下の二つを進言する。

  1. ピアレビューのピアの範囲を広げる
    • 国立科学財団の助成金供与の査定に、たとえば物理学者、数学者、統計学者、そして民間や政府の代表も含める*4
       
  2. モデルを翻訳する研究者の数を増やす
    • 国立科学財団の社会科学部門におけるいわば応用科学課を作る。この課は、モデルの有用性に関する研究を助成し、モデルに警告ラベルを貼る責任を持つ。
    • この課の研究者は、理論の生産者の知識ではなく、消費者の知識を持つものとする。高度な技術は要求されないが、制度、方法論、文献、経済システムの動きに関する識見が要求される。これらのことは現在大学院では教えていないが、判断と常識の基礎になるべきものである。国立科学財団が援助することで、モデルを現実世界に翻訳し適用する経済学者のグループを発展させることができる。そうしたグループが、モデルに必要な警告ラベルを貼り、金融危機の再発の可能性を低めるだろう。

*1:本ブログでは過去に彼の住宅価格政策案を取り上げたことがある

*2:委員会サイトのpdfはこちら。証言の元となった論文も付いている。ちなみにその論文では、青木正直吉川洋の統計物理学を応用した研究が、今後の方向性の一つとして言及されている。

*3:cf. 複雑系―科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち (新潮文庫)には以下のような一節がある(ここで引用したのと同じ章からの引用)。
「われわれエコノミストは、銀行、会社、顧客、政府のような、われわれ経済学の世界の粒子を<エージェント>と呼んでいる。本物の粒子が他の粒子に反応するように、これらのエージェントも他のエージェントに反応する。ただ経済学では、通常、空間的な次元を考えないから、経済学のほうがずっと単純ではある」
しかし彼(=ブライアン・アーサー)は、大きなちがいが一つあると、こうつけ加えた。「われわれ経済学の粒子は賢く、あなたがた物理学の粒子はおばかさんだということ」。素粒子には過去も、経験も、目的も、未来に関しての希望も恐れもない。ただあるだけだ。だからこそ物理学者は「宇宙の法則」についてかくも自由に語ることができる。物理学者の粒子は、力に対してただただ絶対服従で反応する。しかし経済学においては、「われわれの粒子は先を考えねばならないのであり、こっちがこういう行動をとったら他の粒子がどう反応するかを見抜こうとする。われわれの粒子は期待と戦略を基盤に行動しなければならない。それをどうモデル化するかはべつとして、それが経済学を真に困難なものにしている」と、アーサーはいった。

*4:この計画を連想させる話である。