コント:ポール君とグレッグ君:ある見方

クルーグマンとマンキューの大立ち回りについて、ブリガムヤング大学経済学部助教授のリチャード・エバンスという人がブログで評論している。それがマンキュー寄りの評論だったため、マンキューが喜んで自分のブログで紹介している


以下はその評論の拙訳。

アンナ・シュワルツは今月(2009年6月)に出た「ジャーナル・オブ・エコノミック・リテラチャー」で、最近出版されたノーベル賞学者ミルトン・フリードマンの伝記の書評を書いた。彼女のその伝記への批判の一つは、伝記の著者がフリードマンの性格の最も重要な側面を見落とした点にある。それは、彼の経済問題の討論者としてのスタイルだ。彼女はこう書いている。

たとえば、フリードマンの討論者としてのスタイルは彼の性格のある面を表しています。彼は討論相手に対し常に礼儀正しく、人格攻撃をすることは決してありませんでした。彼は相手の議論の弱点に集中し、そして必ず討論の勝者となったのでした。

人格攻撃というのは、論理的に誤った議論であるのに加えて、議論の弱さを示すものだ。人格攻撃は、討論者が(1)健全な議論をするほどテーマを良く理解していない、(2)論理的推論によって正当化され得ない立場を主張している、(3)単に議論を相手を貶める場として使っている、のいずれかであることを示している。(1)と(2)は議論の有効性の判断材料になるが、(3)は無関係である。


どんな種類の議論であれ、人格攻撃という論理的誤謬を避けるのは、すべての経済学者が習得を目指すべき技術である。私は、この点についてフリードマン級の議論の質を実践する人を大いに尊敬する。残念ながら、人格攻撃というのは、経済、法律、政治のあらゆる政策論議で当たり前のこととなっている。


一番最近の例は、2人の重要な経済学思想の先導者、グレッグ・マンキューとポール・クルーグマンノーベル賞受賞者)の間の政策論議に見られる。政治イデオロギーを抜きにして、この2人の経済学者の議論を「人格攻撃指数」という観点から見てみよう。


私はブログや新聞でのマンキューとクルーグマン両者の論説を定期的に読んでいる。クルーグマンの論説で注意すべきは、相手を形容するのに「腹黒い(disingenuous)」、「無知(ignorant)」「邪悪(evil)」といった形容詞が使われる点だ。


その反面、マンキューのクルーグマンへの反応に人格攻撃の要素は見られない(cf. 上記のリンク先のほか、この議論)。実際のところ、マンキューは同意する点についてクルーグマンに賛辞を送ることすらしている(cf. ここで紹介したマンキューの議論、およびここここ)。クルーグマンがマンキューに賛辞を送ったり少しでも譲歩したりする記述は一切見つからなかった。


この人格攻撃指数の評点は、議論の強靭さと討論者の強靭さを共に表す指標だと思う。人格攻撃は大抵の場合それほど努力しなくてもできるし、怒りに任せれば最も容易にできる。しかし私は、相手の人格を攻撃して議論を逸らすという手段に訴えることなく物事が討論できるようになりたいと願っている。ミルトンとグレッグには手本を見せてもらったことに感謝したい。


このエバンスのエントリのコメント欄では、その主張に同意する意見のほか、クルーグマンを擁護する意見もあり、賛否両論が分かれている。
また、日本でも多くの人が指摘したように(本ブログではここで紹介)、クルーグマンノーベル賞を受賞したときに、マンキューは素知らぬ顔でクルーグマンの人格批判論文にリンクしたりしているので、エバンスが言うほど高潔ではないだろう。
とはいえ、一般論としてはエバンスの言うことは正しいと思う。日本でも…いえ、何でもありません。