賃金カットは総需要を減らすか?

クルーグマン5/4のop-ed(邦訳はこちら)で、賃金の下落傾向と、それによる物価下落への懸念を表明した。それに対し、Econlogのブライアン・キャプランとデビッド・ヘンダーソンが、相次いで批判エントリを書いた。


5/7エントリキャプランは、賃金が減少すれば総需要が減少する、という点に関して以下の2点を指摘する。

  1. 賃金が下落すれば、労働への需要が増加する。労働需要の弾力性が高ければ、全体の労働収入はむしろ増加する*1
  2. 労働需要の弾力性が低い場合でも、労働者の賃金が減少した分、雇用者の所得が増える。雇用者がその分を貯蓄に回さない限り、やはり総需要は増加する*2

さらにキャプランは、以下の疑問を投げ掛ける。

  1. 賃金下落は過剰債務の問題を悪化させるとクルーグマンは言うが、賃金の硬直性によって生じる失業は問題ないと言うのか?
  2. 賃金下落が消費者にさらなる賃金下落を予想させ、実質金利の上昇を招くとクルーグマンは言うが、それだけ長期の賃金下落が続くと考えるのはパラノイアだ。

加えてキャプランは、ニューケインジアンの教科書によれば、高インフレは総供給減少を招いてインフレと失業のトレードオフを悪化させるのだから、低インフレは総供給増加によりインフレと失業のトレードオフを改善する、と述べている。最後には、クルーグマン非自発的失業の根本原因は賃金の硬直性であることを忘れている、と批判する。


同日にヘンダーソンエントリを書いて、キャプランに賛意を表すると同時に、クルーグマンの提案はハーバート・フーバーと同じだ、と指摘する。というのは、フーバー大統領が賃金下落を抑制したことが大恐慌の深刻化を招いた、というのがEconlogの代表的見解だからである。


こうした批判はリバタリアンからケインジアンに対するものとしては典型と言えよう。


この議論について、Nick Roweが興味深い整理を試みている。彼によれば、{価格,実質産出}平面上のAD(総需要)曲線において、どの変数を固定するかによって、クルーグマンキャプランヘンダーソンのどちらが正しいか変わってくるという。
具体的には、彼は、名目金利固定、金価格固定、将来価格固定の3つのケースに分けて、AD曲線の形状を論じている。

名目金利固定
名目金利が一定と考え、価格下落がそのまま内生的に名目通貨供給の収縮につながると考えると、AD曲線は垂直になり*3クルーグマンが正しいことになる。つまり、価格下落は総需要に対して一次的な効果を持たず、クルーグマンの指摘するような実質債務の増加やデフレ期待の定着(とそれによる実質金利の上昇)といった二次的な効果によって実質総需要は減少することになる(この二次的効果を含めて考えれば、AD曲線は右上がりといえる)。
金価格固定
一方、大恐慌金本位制の時期のように、金価格が一定と考えると、キャプランヘンダーソンが正しいことになる。物価の下落は金ストックの価値を増加させ、究極のマネタリーベースである国際準備の価値も増加する。これにより、中央銀行は(それを裏付けとする)通常の通貨供給を増やすことが可能になる。この金融緩和は総需要増加につながるので、AD曲線は通常の右下がりの形状となる*4(ただし、上述の二次的効果はやはり発生する)。
将来価格固定
また、インフレ目標制度により、1〜2年後の価格が一定であることが確実ならば、AD曲線は今度は水平となる*5。その場合に賃金や価格が下落すれば、労働需要や総需要が無限に大きくなると同時に、中央銀行は、価格を目標水準に戻すためにあらゆる手段を用いて金融緩和を行なう。


最後の3番目の状態は、ニューケインジアンが描く通常の状況である。しかし現在のような非常時には、どんな手段を使ってもインフレ目標が達成できないかもしれない。そう考えると、今は金利一定の世界が現実描写により適していることになるだろう、というのがRoweの結論である。

*1:後述のRoweのエントリのコメント欄で「Adam P」氏は、クルーグマンが価格と賃金が並行して下落し、実質賃金に変化が無いことを仮定していることをキャプランは見落としている、と指摘している。

*2:「Adam P」氏は、これが成立するためには雇用者の限界消費性向が労働者のそれよりも高いことを示す必要がある、と指摘している。

*3:cf. たとえばISLMにおいて名目金利がゼロに張り付き、流動性の罠に陥った場合、AD曲線は垂直となる。このエントリ参照。

*4:cf. 通常のISLMから導かれるAD曲線。ただ、Roweのこの金価格固定の仮定のもとでも、流動性の罠に陥ればやはりAD曲線は垂直になるように思われる。

*5:この場合、生産水準は供給によって定まるというセーの法則の世界になる。