昨日の経済学から帰納の経済学へ

アイケングリーンが、21世紀の経済学はこれまでの演繹的な経済学から帰納的な経済学になるだろう、と書いているEconomist's View経由)。


「リスクの最後の誘惑(The Last Temptation of Risk)」と題されたその小論*1の前半部分では、経済学そのものには問題はなかったのに、その誤用によって今回の危機が起きた、という彼の見方が詳述されている。この見解は、ここで紹介したロドリックの論説とほぼ同様である*2

中段にそのまとめのような文章があるので、紹介しておく。

What got us into this mess, in other words, were not the limits of scholarly imagination. It was not the failure or inability of economists to model conflicts of interest, incentives to take excessive risk and information problems that can give rise to bubbles, panics and crises. It was not that economists failed to recognize the role of social and psychological factors in decision making or that they lacked the tools needed to draw out the implications. In fact, these observations and others had been imaginatively elaborated by contributors to the literatures on agency theory, information economics and behavioral finance. Rather, the problem was a partial and blinkered reading of that literature. The consumers of economic theory, not surprisingly, tended to pick and choose those elements of that rich literature that best supported their self-serving actions. Equally reprehensibly, the producers of that theory, benefiting in ways both pecuniary and psychic, showed disturbingly little tendency to object. It is in this light that we must understand how it was that the vast majority of the economics profession remained so blissfully silent and indeed unaware of the risk of financial disaster.

(拙訳)つまり、我々がこの混乱に陥ったのは、学者の想像力の限界のせいではない。利害の衝突や、バブルやパニックや危機につながる過剰にリスクを取るインセンティブや情報の問題を、経済学者がモデル化しなかった、ないしできなかったせいではない。また、意思決定において社会的および心理的な要素の占める役割を経済学者が認識できなかった、ないしその意味を引き出すのに必要なツールを欠いていたせいでもない。実際、そうした認識は、エージェンシー理論、情報経済学、行動ファイナンスといった分野の発展に寄与した人たちによって想像力豊かに展開されてきた。問題はむしろ、経済学を偏狭的にしか捉えなかった側にある。経済理論の受け取り手たちは、驚くべきことではないが、経済学のそうした幅広い分野の中から、自分たちの利益に適う行動を最も支持する要素を選り好みして拾い上げる傾向があった。同様に罪があったのは、そうして拾い上げられた理論の産みの親たちで、金銭的にも精神的にも恩恵に浴し、本来唱えるべき異議を唱えなかった。経済学に携わるものの圧倒的多数があれほど沈黙を守り、金融災害のリスクに本当に気がつかなかったということは、こうした観点から理解されねばならない。


そしてアイケングリーンは、今後の経済学がそうした誤りを繰り返すか否かについて自問し、それを避ける希望の光を実証経済学の発展に見い出す。彼によると、実証経済学はこれまで理論経済学より一段下に見られてきたが、その理由の一つは、実証経済学者たちが扱うデータポイントが数十、あるいはせいぜい数百に限られ、しかも70年代まではそのデータをパンチカードに入力せねばならず、かつメインフレームの処理も何時間もかかった、という状況にあった。
しかしIT革命によって状況は一変した。現代の12歳の子供が親よりもインターネットからのデータの落とし方を熟知しているのと同様、今日の大学院生たちは、指導教官と違い、サイバースペースからデータを取るのを当たり前のこととしている*3。そうして各所から集めたデータを自在に操り、理論では出てこない実証結果をラップトップで引き出す。また、扱うデータポイントも数百万に達することも珍しくない。
その結果、今や若手の優秀な研究者は、むしろ実証経済学への志向が強まっている。彼らは、かつてのように理論の想像の翼で羽ばたくことではなく、地に足のついた事実に基づく研究に目を向けている。そうした研究は、実世界の観測に裏打ちされるので、これまでより流行り廃りに左右されにくくなるのではないか、というのがアイケングリーンの(希望的)観測である。


そこからアイケングリーンは、冒頭で紹介したように、演繹的な経済学から帰納的な経済学への転換を予測する。

The late twentieth century was the heyday of deductive economics. Talented and facile theorists set the intellectual agenda. Their very facility enabled them to build models with virtually any implication, which meant that policy makers could pick and choose at their convenience. Theory turned out to be too malleable, in other words, to provide reliable guidance for policy.


In contrast, the twenty-first century will be the age of inductive economics, when empiricists hold sway and advice is grounded in concrete observation of markets and their inhabitants. Work in economics, including the abstract model building in which theorists engage, will be guided more powerfully by this real-world observation. It is about time.

(拙訳)20世紀後半は演繹的な経済学が隆盛を極めた。才能ある器用な理論家たちが知的枠組みを規定した。まさに彼らのその器用さが、事実上どのような意味合いも引き出せるモデルの構築を可能ならしめ、その中から政治家たちは自分の都合に合わせて好きなものを選ぶことができるようになった。言い換えれば、理論は、政策の拠り所とするには融通が利きすぎるようになった。


対照的に、21世紀は帰納的な経済学の時代になるだろう。実証研究者が主流となり、その助言は、市場とその参加者に関する確固たる観測に基づいたものになるだろう。経済学の研究は、理論家の抽象的なモデル構築を含め、そうした実世界の観測によってより強く導かれるだろう。もうそうなってもいい頃だ。


このアイケングリーンの見解は、ここで紹介したBuiterの経済学に対する見方と通底しているように思われる。

*1:このタイトルはもちろんこの映画(ないしその原作)の題名をもじったものだろう。

*2:実際、ロドリックはブログでそのシンクロニシティ(この言葉自体は使っていないが)に驚いている。ちなみにそのエントリによると、彼とアイケングリーンのネタ被りはこれが3件目だと言う。

*3:クルーグマンもそうした院生がいれば、日本の民間設備投資や貿易収支のデータを入手できたかもしれない。そういえば彼は生徒に恵まれないとぼやいていたことがあったな…(多分性格が悪すぎるせいだろう)