資本注入無用論

月曜日(10/20)の日経の経済教室で、大村敬一早稲田大学教授が、「資本注入で問題解決せず」という題で書いている。相変わらず舌鋒鋭い論説で、面白く読んだ。

氏の論点は以下の二つ。

日本の公的資金注入は成功例ではない
最後の注入から主要行が不良債権整理に重い腰を上げるまで二年余を要した。その不良債権処理の直接のきっかけは特別大口検査。従って日本の公的資金注入はむしろ銀行経営の規律を強めるのに役立ったと見るべき。その間に、銀行など当てにしない事業会社の自助努力により景気が回復した。
金融機関のエクイティ(株式資本)の役割
投資銀行の敗因は、ユニバーサル型の商業銀行の投資銀行業務への参入に対抗して、従来の私募中心の資金調達から公開市場での資金調達に切り替えたことにある。それは、事業拡大を容易にした半面、市場の評価に振り回される結果を招いた。つまり、本来安定装置であるはずのエクイティが、その評価である株価を通じて金融機関を追い詰める不安定装置と化した。株主が短期視野のファンドや機関投資家であったこともその不安定化の一因。
結局、総合サービス型の大規模投資銀行は消滅し、預金という安定的で安価な資金調達源を持つユニバーサルバンクに軍配が上がった。


さらに、米国の資本注入については、以下のような悲観的な見解を示している。

  • 日本では「結果的に」景気浮揚の転換局面で実施されたのに対し、米国では機動的な初期対応が必要な場面である。景気後退期にある米国では波に抵抗する注入となるのでコストパフォーマンスが悪い。風邪のひきはじめにこそ資本注入をすべきだとの主張がみられるが、それなら市場にサプライズを与えるほどの巨額でなければならない。
  • 日本では預貸金利差の維持により国民負担を強いたが、それは家計の富の約六割を金利非感応的な高齢者が保有している同質的社会だから通用したもの。富裕層が金融機関をはじめとする経営者層に偏る異質的社会の米国では同様の手法は通用しそうにない。


このように問題点を並べられると、rainygreenさんならずとも、では、どうしたらいいのか、と訊いてみたい気になるが、それに対する回答は示されていない。
ちなみに、大村氏は、最初の論点を論じたところで、

…大口不良債権を処理しようとすれば資本が棄損して自己資本規制をクリアできない。直接処理で関係を清算すれば、取引企業の倒産とそれに続く連鎖倒産で社会的責任が問われる。債務不履行リスクの高い中小零細企業向けを縮小すれば「貸し渋り」非難されるというジレンマのなかで、横並び行動に慣れた銀行は景気回復を待つ他力本願の姿勢だった。

とも書いているが、氏の上記の分析に鑑みると、それが実は最適な行動だったということになりかねない。
…いや、ひょっとするとそれが真実なのか? そういえば、元大蔵省銀行局長の西村吉正氏も、「時間を貸す」ソフトランディング路線を(自己弁護のきらいはあるにせよ)擁護していたし*1
そうすると、昨日のエントリについて稲葉氏から頂いたブコメ「なお宮沢喜一の功罪についてもきちんとしたまとめがほしいような気が。」への回答は、「実は彼はそれほど間違っていなかった。」ということになるのだろうか…。

*1:田中氏のブログで紹介されていた大和総研の分析でも、日本の公的資金注入と資産買い取りを、「時間を買う」という観点から成功と評価している。