整合性の狭間に落ちたリーマン

19日のエントリでは、freakonomicsブログにおけるダイアモンド=カシャップの金融危機問題の解説を取り上げた。実はこの二人がそこに解説を書いたのは二回目で、初回は9月18日に書いている。時あたかもリーマンの破綻とAIGの救済という激震の直後で、当然ながら内容もその問題(および、少し前に事実上国有化されたフレディマックファニーメイの問題)に焦点を当てている。

その解説の中で、彼らは動学的非整合の問題に言及している。動学的非整合の問題は、田中秀臣氏が19日のブログエントリでアンナ・シュワルツの金融当局批判に絡めて触れているが、彼らは、田中氏のようなリーマン破綻とAIG救済の間ではなく、ベア・スターンズ救済とリーマン破綻の間の動学的整合性の問題を取り上げている。面白いのは、むしろ動学的整合性を維持するために、リーマンは潰さねばならなかった、という彼らの見解である。

...if the government had rescued Lehman, it would have repudiated the claim that the Bear rescue was extraordinary; it would have also conceded that in the six months since Bear failed, neither the new facility that it set up nor the other steps to make markets more robust were reliable. Essentially, the Fed and the Treasury would have been admitting that they had lied or were incompetent in stabilizing the financial system — or both.
It was not surprising that they drew the line at helping Lehman. Based on all the publicly available information, this was clearly the right thing to do.

ベア・スターンズ救済についての当局の立場は、情報が少ない準備不足の環境下で取ったやむを得ない特殊措置であり、その後にはこうした事態の再発に備えて対策を打ったので、今度同じようなことが起きてももう救済はしない、というものだった。
そして半年後に実際に起きたのが、ベア・スターンズと同型のリーマンの危機である。これを救済してしまうと、当局の宣言した政策について動学的非整合が起きてしまう。つまり、当局の政策の動学的整合性を維持するため、リーマンは犠牲になった、そしてそれは正しかった、というのがダイアモンド=カシャップの主張である*1


ダイアモンド=カシャップは、先に紹介したfreakomonicsブログの2回目のエントリでは、資本注入に当たっては銀行の選別を厳しくすべし、と述べている(カシャップは星と共に、本日の日経の経済教室でも同様のことを述べている)。また、カシャップが、カバレロ、星と共に、日本の長期不況におけるゾンビ企業の存在を指弾した論文は、日本でも論議を呼んだ(たとえばこれこれこれ)。
どことなく清算主義の匂いが漂うそうした論説からすると、上記のようなリーマンに厳しい姿勢もその延長にあると受け止められる。


しかし、個人的には、リーマンを破綻させた代償はあまりにも大きすぎたような気がする。クルーグマンは、当初、ポールソン財務長官は米国の金融システムを対象にロシアン・ルーレットを行なったと評し、1ヵ月後には、結局その弾倉には弾が入っていた、と皮肉った。
ラテン語で「正義を行なうべし、たとえ世界が滅びようとも(Fiat iustitia, et pereat mundusもしくはFiat justitia ruat caelum)」という格言があるそうだが、リーマンの破綻はそれを地で行ったように思われる。

*1:一方、AIGフレディマックファニーメイは、ベア・スターンズとは異なるタイプの危機だったので、救済しても動学的非整合は生じなかった、と彼らは言う。