経済学と数学

経済学と物理学に関するエントリが続いたが、今日は、経済学者へのインタビュー本の内容をまとめた以前のエントリから、経済学と数学に関する経済学者の意見を抜粋してみる。

Milton Friedman

「新しい皮袋の中の古い酒」(1991)では、今の経済学は、現実の経済問題を扱うことを避けて、神秘的な数学の一分野になってしまっている、という事実を訴えようとした。近頃は専門家しか理解できない論文が多く、その傾向は経済学の発展にとって必ずしも好ましいことではない。その意味で「経済学の研究は質的に低下したか」という質問は案外正しい。(1991年の論文では経済学という学問は「分析の機関車」だという説を唱えたが)技術的、理論的な体系としてのは近年随分進歩したことは間違いない。

マクロ経済学はどこまで進んだか/Milton Friedman - himaginaryの日記

Robert E. Lucas Jr

ケインズとマーシャルが数学者として出発したのに、途中で方向転換して経済学の考えを導き出すのに数学を重要視しなかったのはなぜか、という質問に対し]マーシャルが教育を受けたときもケインズが教育を受けたときも、イギリスは数学の分野で沈滞していた。二人が大陸で教育を受け、コルモゴロフ、ボーレル、カントール等と一緒に仕事をしていたらまた別の考えを抱いただろう。事実、ワルラス、パレート、スルツキーなどは2人と違った分析手法を用いており、数学的な経済学を確立した人々は当時は主に大陸にいた。

私は数学と一般均衡論が好きだが、フリードマンはそうではなかった。フリードマン一般均衡論を展開する船に乗り遅れたと思う。

マクロ経済学はどこまで進んだか/Robert E. Lucas Jr - himaginaryの日記

Robert W. Clower

マーシャルとケインズは2人とも数学科出身だったにも関わらず、自分たちの仕事に数学が必要だとは思わなかった。数学など捨ててしまえ、などという態度を取ったマーシャルには全く賛同しない。しかし、経済学の研究に数学を使う場合は、自分は今数学ではなく経済学の研究をしてるのだということに常に留意しておく必要がある。そもそも経済学の分野に二線級の数学者しかいないのに、中途半端な数学を勉強してそれを使うのが問題ではないか。応用数学は経済学に必要だが、高等数学が必要かは疑問。経済学で使用している微積分学はそれほど高度なものではない。コンピュータのプログラミングに使う数学は確かに必要で、今後ますます重要視されるだろう。

今の経済学は現実の経済問題を取り扱うというより、何だかわけのわからない数学の一分野になりつつあるというフリードマンの指摘には同感。皮肉な言い方をすれば、自分は数理経済学者なので経済学のことは何も知らない、と言ったデブリューは、1990年以前のノーベル賞受賞者の中でただ一人率直に自分のことを言い表した。

マクロ経済学はどこまで進んだか/Robert W. Clower - himaginaryの日記

Paul M. Romer

数学を駆使する社会科学の一分野としては、経済学はまだ若い分野であり、今でも思春期にあると言える。アインシュタイン相対性理論を打ち立てた頃、経済学者はまだ訳の分からない用語を使っていたり、話にならないほど幼稚な図を用いていた程度の水準でしかなかったことは忘れるべきではない。今では経済学者は物理学者が使うような高度な数学を使っており、そうした数学を使うようになってからごく短期間に経済学者の考えも随分変わった。分析道具の開発と分析結果にはトレードオフがあり、前者に力を注ぐと後者が疎かになることから、開発経済学者はソローの分析手法を数学を弄んでいるだけと批判する。しかし理論家から見れば、そのトレードオフは時間的なもので、分析道具の開発が進めば将来政策立案に際してより良きアドバイスができると強調すべき。両者はお互いの専門分野を非難するのではなく、分業の必要性を認識してお互いの貢献する分野で特化し、よりオープンなコミュニケーションを確立すべき。

ミュルダール、カルドア(いろいろな因果関係を重視するあまり一般均衡理論を拒否しがちな経済学者)、シュンペーターを読んでも言葉ばかりで分かりにくい。その問題は一般理論にも当てはまる。(そうした問題に関して)クルーグマン開発経済学についてとてもよい論文を書いた。文章だけを読んで理解したと思うのはとても危険なことだし、自分の考えを数学的モデルを使って示そうとすると比較的正しく伝わる気がする。今では経済学者が主張したいことを数学的手法を用いて随分分かりやすく展開することができるようになり、議論しやすくなった。

マクロ経済学はどこまで進んだか/Paul M. Romer - himaginaryの日記

Mark Blaug

「経済学は確かに科学だが、数学の一分野ではない」「多くの人々は、経済学をあたかも数学の中の一つの分野とみなして、経済学の理論を数学に組み入れようとばかりしている」というクラワーの意見に賛成。価格、市場、商品といった言葉が今や数学の言葉のようになっているが、経済学の分野でしか使えない言葉を数学的にどうやって言い表せるのか。経済学者は、ますます数学を憧れの目で見るようになり、これまで憧れていた物理学を袖にしたというマックロスキーの意見に同意。物理学者は実験や実験で得た結果を大切にしているが、そちらの方がまさに経済学的ではないか。

「経済学は現実的な経済問題を扱う学問というよりは、むしろ神秘的な数学の一分野になってしまった」というフリードマンの意見に賛成。理論的な展開の正しさを証明していくのは実証分析であり、それを実行するのは計量経済学である、と思われがちだが、私はフリードマンが「貨幣の歴史」(1963)で行ったような比較歴史的分析が大切かつ有効と思う。本来計量経済学の仕事は様々な経済理論の中から正しい理論を識別する手助けをすることだったはずだが、現実には一層混乱させているようだ。サマーズやサミュエルソンも同様の指摘をしている。

経済学は、議論を構築する際に厳しい精密さが要求されることと、精密さだけでは問題が解決しない漠然とした曖昧さのトレードオフで成り立っている。世の中の人々が直面している経済問題は多分に厳密さや精密さだけで解決されるようなものではなく、時として非厳密さや非精密さなどが大切になる。社会科学を数学的に分析しようとすると、分析の対象としている問題の本質はどこかへ置き去られてしまうことが往々にしてある。最近の数理経済学者は数学を道具として有効に使おうとしているものの、数学は限定された道具にすぎないということにようやく気づくようになった。厳密さだけを重視する専門家がどんどん増えるのは気になる。

マクロ経済学はどこまで進んだか/Mark Blaug - himaginaryの日記


こうしてみると、フリードマンの警告はあるものの、数学の重要性を否定する経済学者はこの中にはいないことがわかる。経済学者は所詮数学者としては二線級、などと言って斜に構えているクラワーでさえ、数学の必要性を認めている。


また、ブローグが引用した「経済学者は、ますます数学を憧れの目で見るようになり、これまで憧れていた物理学を袖にした」という言葉は面白い。引用元は明記されていないが、おそらくこの本だろう。

ノーベル賞経済学者の大罪

ノーベル賞経済学者の大罪

ちなみに、この本について紹介したブログ記事メルマガ記事(のコピー)を見つけた。小生もこの本を読んだ記憶はあるのだが、細部は記憶していなかったので、両者とも面白く読ませて頂いた。特に、後者で紹介されている、サンタフェで経済学者が物理学者の証明に難癖を付けたエピソードが面白い。
ただ、前者のブログエントリに書かれているように、マクロスキーも数学の使用自体が駄目だと言っているわけではなさそうだ。彼(女)の言いたいことは、結局、昨日触れたこのブログエントリで引用されている以下のケインズの言葉に集約されているのだろう。

...the master-economist must possess a rare combination of gifts. He must be mathematician, historian, statesman, philosopher–in some degree. he must understand symbols and speak in words. He must contemplate the particular in terms of the general, and touch abstract and concrete in the same flight of thought. He must study the present in the light of the past for the purposes of the future. No part of man’s nature or his institutions must lie entirely outside his regard. He must be purposeful and disinterested in a simultaneous mood; as aloof and incorruptible as an artist, yet sometimes as near the earth as a politician.

この言葉の邦訳はたとえばこちらを参照。気鋭の経済学者でブロガーとしても有名な安田洋祐氏も、この言葉に衝撃を受けたとのことだ。