100%確実

金融危機の行方も気になるが、今日は以前*1友人に書いたメールを埋め草的にアップしてみる。内容的には池田信夫氏にゲーデルの誤用だと怒られそうな話だが、まあ、辺境のブログの戯れ言にそれほど目くじらを立てる人もいないだろう。
メールの趣旨は、読んでいただければ分かるとおり、一時期、友人が「確実さ」というものに矢鱈にこだわって会話が少しこじれそうなことがあったので、それを半ば煙に巻く形で収拾しようとしたものである*2


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「…真実を伝聞だけで構成するには限界があるからね。」という私の言葉に引っ掛かったようなので、この件についてちょっと私がこれまで勉強して考えたことを(講談社ブルーバックス風に)まとめてみました。


現在私がかじっている「計量経済学」という経済学の分野では、分析ツールとして統計学を使います。この統計学では、「Aが正しい可能性が5%以下ならば、Aは間違っていることにしてしまおう」という考え方が良く使われます。この場合、「Aが正しい」という説を帰無仮説(null hypothesis)と呼び、「Aが正しい可能性が5%以下である」ことが統計的に確認された場合、帰無仮説が棄却された(rejected)と言います。また、その時の5%以下の領域を棄却域と言います。棄却域は1%を使ったり10%を使ったりすることもあります。


なぜこんな話をするかというと、一応科学的手法が確立されているとされる統計学の分野でさえ、仮説の検定には5%程度の誤差を見込んでいる、ということを言いたかったからです。こういった検定では、本当はAは正しいのに、間違っているとしてしまう可能性があります。そのような過ちを第1種の過誤と呼びます。逆に、本当はAは間違っているのに、Aは正しいとしてしまう可能性もあります。そのような過ちを第2種の過誤と呼びます。


そう考えると、世の中一般の話について、マスコミやネットを通して100%の真実を手に入れることが如何に難しいかは明らかでしょう。たくさんの事例を集めて、それらの分布が数学的に分かっていて統計学が適用できる場合ですらこのありさまですから、一度きりの事件について、それを経験していない人が(あるいは経験している人ですら)真実を知るのは、極めて困難ではないかと思います。


昔Descartesという人が、自分が100%確かだと思うことは何だろう、と一生懸命考えた揚げ句、コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)ということしか100%確かなことはない、という結論に至りました。その「自我」が認識する種々の現象ですら本当に存在するかどうか分からない、というのがいわゆる不可知論です。フッサールという人は、この自我が認識する現象について考え、現象学という新しい哲学の分野を切り開きました。


20世紀に入ってからは、物理学の分野でも人々の認識論に大きな影響を与える発見がなされました。いわゆるHeisenbergの不確定性原理がそれです。それまでのニュートン力学では、物体の運動は数学に厳密に従うので、その物体の位置と速度に関する初期条件と、物体に加えられる力が正確に把握できれば、物体の動きが未来永劫正確に予測できるとされていました。それに対し、20世紀初頭に完成した量子力学という新しい物理学の分野では、原子レベルの極微な世界においては、位置と速度が同時に決定できないという結論が導かれました。また、極めて短い時間では、エネルギー保存則にも不確定要素があることも導かれました(そのため、ある瞬間は真空だったところに、次の瞬間は粒子が誕生していることも有り得るのです)。量子力学から導かれたこれらの理論こそが不確定性原理です。相対性理論を発見したアインシュタインが「神がさいころを振り給うはずがない」と最後までこの不確定性原理の受け入れを拒否したのは有名な話です。しかし、その後の実験の積み重ねで、量子力学不確定性原理が現実をうまく説明していることがますます明らかになっています。


また、1960年代以降は、(不確定性原理の影響が無視できる)普通の時間と空間の尺度においても、ニュートン力学決定論に疑問を投げかける発見がなされました。それがカオス理論です。この理論では、物体の動きが数学的に厳密に分かっていても、初期条件がほんの少し違うだけで、その後の結果が大きく違う場合があることが示されました。つまり、ニュートン力学の世界でも、原理的に予測不可能な場合があるということです。


こうして物理学でも「確実」ということに対する疑問符が付けられたのですが、では数学はどうでせうか。世の中に不確実なことは多々あれど、数学の体系こそは万古不易、常に確実なものではないでせうか。
そう考えて19世紀の終わりから20世紀にかけ数学の厳密な体系化に乗り出したのが、ヒルベルトです。彼は心血を注いでその事業に取り組みました。そしてその事業が完成しようとしたまさにその時、ある定理の発見によって、自分の野心が達成不可能であったことを知ります。そう、ゲーデル不完全性定理を発見したのです。これは、「数学の体系では、その体系の中では決定不可能な命題が存在する」という定理です。比喩的に言えば、「常に嘘を付く人が“自分は嘘付きだ”と言った」てな類の命題が存在するということですな。
というわけで、純粋に思弁の産物であるはずの数学ですら、矛盾を自らのうちに抱え込んでいることが明らかになりました。


ま、「深遠な」学問の世界ですらこういった状況ですからな。以前、集いで芸能ネタなどの世間話をしたら、そんなこと本当かどうか分からん、100%確かじゃなけりゃそんなことは言えないんじゃないか、といちいちケチをつけられて話が進まずに困ったことがありましたが、それは野暮というものでせう、と思いますです。

*1:正確には2001/9/7。

*2:なお、個人的には、このように科学をレトリックに使うのも、それがあくまでも“お話”であることを弁えてさえいれば、必ずしも常に否定すべきこととは思わない。問題なのは、それがいつの間にか“お話”の枠を超えて、それ自身が科学的真実であるかのように振舞い始めた時だろう。