経済学者は医療過誤で訴えられるべき?

Girl Economistを名乗るMaxine Udallという女性経済ブロガーが、表題のエントリを書いているEconomist's View経由)。以下に抄訳で紹介してみる。

ポール・クルーグマンの昨日の財政脅し戦略に関する記事に、以下のような記述があった。

しかし問題は、多くの人にとって、ひねくれた姿勢と真剣な経済学の議論を区別するのが明らかに難しいことにある。そしてそのことは悲劇的な結果をもたらす。

多くの人がひねくれた姿勢と真剣な経済学の議論が区別できなくなるような事態にどうして立ち至ってしまったのか? それは経済学の責任が大きいのだろうけども、どうして経済学がそのような悲劇的な結果をもたらしかねない状況を作ってしまったのか?


何年か前、私はポール・サミュエルソンに責任があるという仮説を立てた。・・・というのは、ポールが、最適化の微積分を、経済理論の描写と経済変数間の関係についての実証可能な仮説の構築に最初に使用したからだ(1947年の経済分析の基礎)。・・・


しかし私は、すぐにサミュエルソンを無罪放免とした。彼の書いたものを読めば、彼が単なる数学に留まっていなかったことがすぐに分かる。また私は、かつて道徳学の主要な一部であったものに数学を導入することが、経済学を孤立させ、多くに人々にとってつまらなくて訳が分からないものにするのに十分なわけではない、ということに思い至った。もちろん、大学院進学適性試験GRE)の数学が700点以下の人にとっては、経済学は訳の分からないものになった。しかし、それは必要条件であっても、十分条件では無かった。「ひねくれた姿勢」と「真剣な経済学の議論」が区別できなくなるためには、経済学が道徳的内容と決別することも必要だった。


では、それはどのように起きたのか?


経済学が道徳学体系から分離した責任の一端は、ライオネル・ロビンズにあると思う。彼は「経済学は倫理学とは根本的に別物である」と1935年出版の「経済学の本質と意義」で書いている。

経済学は目的に関しては中立である。経済学は複数の目的に関する判定の最終的な妥当性について何も言うことはできない。・・・[経済学は]相異なる目的のどちらが望ましいかについて決定を下すことはできない。

そうした姿勢は、ジョン・ネビル・ケインズ(メイナードの父)やピグーによって既に採用されていた。しかし、タイミングのお蔭で、ロビンズがより大きな影響力を持った。彼の本は1948年に再版されたが、それはちょうど数学化の勢いが高まりつつある時だった。個人間の効用を比較することが不可能であるというロビンズの見解が、今日に至るまで経済学者に幅広く無批判に受容されたこともおそらく与って大きかった。・・・


そしてもちろん、こうしたことのすべてが、科学と科学的手法を美と真実への唯一の道と見なす世界で起きていた。数学化は経済学を他の社会科学より一段上の存在にした。魔法の数学に基礎を置いているのだ。科学的厳密さが我等の手の内にある!

・・・

数学化され道徳学と決別した経済学は、第二次世界大戦後に効果的に中立化された。それは、経済学と「真剣な経済学の議論」との関係が確立され発展したかもしれない時期だった。そうして出来上がったのが、市場の力と全面的に和合した代物で、国の意見を変容させ、最終的には「政府こそが問題だ」ということを人々に納得させることに成功した。遂には大恐慌時代に導入された規制を撤廃し、投資銀行に野放図な投機による利益を許したが、それは債務不履行の際には唯一の払い手(=政府、納税者)に気兼ねなく負担してもらうことになるセーフティネットに支えられたものだった。


かてて加えて、哲学的には空虚、数学的には厳密、理論的には曖昧で、かつほとんどの場合我々の知る現実とは無関係な存在証明を好む雑誌に論文を掲載することを要求し、それしか認めないという昇進とテニュアの方針が、二流の経済学部にまで広まった。こうして、学部時代に経済学を専攻した者も含めてほとんどの者が、その意味も、今日我々が直面する重大な道徳的経済的問題との関係も理解できない経済学の体系が我々の手元に残された。


多くの人々が「ひねくれた姿勢と真剣な経済学の議論が区別できなくなった」のも無理は無い。これは経済学者と経済学という職業に対する大音声の告発である。市場がそれを支援し促進した。我々の職業は、高給と高いコンサルタント料で潤った。その間、我々の失敗の「悲劇的な結果」は、他のどの先進国に比べても2倍に達する医療費を浪費しながら人口の約20%を無保険のまま放置するような国、10%の失業率や増大する住宅不動産の差し押さえ率を抱えながら、我々をこのどぶに追い込んだ連中、国民の中でも最も富裕な階層に属する連中に対し、低中所得の納税者がその資金を賄う唯一の払い手による債務不履行保険を提供するような国を作り上げた。そうした連中には税金を課すことができないが、それは彼らの金融の専門知識や洞察による怪しげな恩恵を我々に引き続き提供せしめるためとのことだ。


我々が政治的に行き詰ったのは、「政府こそが問題だ」という考えが根を下ろしたためだ。科学のふりをする規範的な判断を欠いた哲学が、他のあらゆる哲学的もしくは経済的な基準よりも効率性を上位に置いたことにより、そうした考えを増長させた。その結果、米国および世界で、経済理論の微妙さを理解する数学的素養を欠いた人々が、死せる経済学者たちと一人の死せる大統領によるキャッチフレーズに魅了されている。


経済学は、我々がどぶにはまることになったドライブを側面支援する理論と言語を用意した。そうなったのは、経済学が哲学から決別するのを許したためだ。今や経済はあっぷあっぷの状態で、この民主主義の世でほとんどの人々が「ひねくれた姿勢と真剣な経済学の議論の違い」が区別できなくなった。しかし彼らは本来そうした区別ができるし、選択する意思もある。


もし経済学者が医師だったら、医療過誤で訴えられていることだろう。