信頼できる無責任・再訪

という小論(原題は「Credible Irresponsibility Revisited」)をクルーグマン上げている(H/T タイラー・コーエン)。以下はその導入部の末尾。

The question I’m trying to answer here is why fiscal rather than monetary policy has become the solution of choice for persistent shortfalls in demand. If the problem is that monetary policy can’t drive real interest rates low enough to achieve full employment, why isn’t the answer higher inflation to allow lower real interest rates?
One possibility is that we are simply dealing with a modern version of the gold standard mentality that inhibited an effective response to the Great Depression. But are there better, more substantive arguments for a fiscal rather than monetary response to secular stagnation?
To preview, I don’t think the answer is one-dimensional. To some extent we are dealing with the dead hand of conventional wisdom, with 2% fetters replacing the golden fetters of the 1930s. But there are also some real arguments for keeping the inflation target low if you can still achieve full employment, and both the budgetary and the economic implications of a low “natural” real interest rate make it easier to justify permanent fiscal stimulus than I would have imagined back in 1998.
The first section of this paper reiterates my 1998 argument for credible irresponsibility and talks about the practical difficulties of implementing that strategy. The second section talks about the strange history of two percent — how a seemingly arbitrary inflation number acquired such iconic status that it’s seemingly immovable, even though the quantitative logic that originally seemed to justify it hasn’t stood the test of time. The third section is about the downsides of revising the inflation target up. The fourth section is about the new economics of public debt — why serious economists, Blanchard in particular, are no longer scared by historically high debt-to-GDP ratios and why crowding-out arguments have lost most of their force. A final section asks to what extent revisiting these issues makes a case for a fiscal as opposed to monetary response to the low-rate problem.
(拙訳)
ここで私が回答しようとしている疑問は、需要の継続的な不足に対し、なぜ金融政策ではなく財政政策が解決策として選ばれたのか、ということである。金融政策によって完全雇用を達成するのに十分なだけ実質金利を低くできないのが問題、ということであれば、なぜ実質金利を低くする高インフレが回答にならないのか? 一つの回答候補は、要は、大恐慌への効果的な対応を妨げた金本位制心理の現代版の話になっている、というものである。しかし、長期停滞に金融ではなく財政で対応するということについて、もっと優れた実のある議論はないものだろうか?
予め言っておくと、私は回答は一元的なものだとは思わない。ある程度までは、我々は、1930年代の金の足枷が2%の足枷に置き換わった世間知の死せる手を扱っている。だが、完全雇用をそれでも達成できるならばインフレ目標は低く保つべき、という実のある議論も幾つかある。そして、低い「自然」実質金利が財政と経済の両方にとって持つ意味によって、1998年に私が想像したよりも、恒久的な財政刺激策を正当化することが容易になっている。
本稿の第一節は、信頼できる無責任についての私の1998年の議論を再訪し、その戦略を実施する際の実務的な困難について論じる。第二節では、2%の奇妙な歴史――なぜ恣意的と思われるインフレの数値がこれほど偶像的な地位を獲得し、最初にそれを正当化したように見えた定量的な論理が時の試練に耐え得なかったにもかかわらず動かせないように思われるのか――について論じる。第三節はインフレ目標を引き上げることの短所について論じる。第四節は公的債務の新しい経済学についてで、なぜ、まともな経済学者、特にブランシャールが、歴史的に高水準の債務GDP比率をもはや恐れず、クラウディングアウトの議論がその勢いの大部分を失ったか、についてである。最終節では、こうした問題の再訪が、金融ではなく財政による低金利問題への対応をどの程度正当化するかを問う。

第1節の終わりでクルーグマンは以下のように書いている。

Part of the problem, I believe, is fear of failure. How, exactly, does a central bank commit to future irresponsibility? ...
But central banker resistance to a higher target goes beyond unwillingness to make promises they might not be able to keep. I’ve been on this case for decades; I’ve tried to make the case for raising the inflation target both in public and behind closed doors. I’ve had about as much impact as the post-2008 rise in the monetary base had on the price level. But why?
(拙訳)
問題の一部は、失敗への恐れだと私は思う。中銀は一体どうやって将来の無責任にコミットすれば良いのか?・・・
しかし高い目標への中央銀行家の抵抗は、守れないかもしれない約束をすることへの躊躇を超えている。私はこの件に数十年携わってきた。公的な場でも密室でも、インフレ目標を引き上げるべき理由を説いてきた。私のもたらした影響は、2008年以降のマネタリーベースの増加が物価水準にもたらした影響と同程度だった。しかしそれは何故だろう?

第2節では、2%がインフレ目標として確定した根拠として以下の2つを挙げている。

  • 多くの経済学者と中央銀行家が真の物価安定としてゼロインフレが望ましいとした一方、サマーズは、ゼロインフレでは不況期の中銀の金利引き下げ余地が限られる、と論じた。測定されるインフレを低いプラスに設定することは、双方を満足させるように思われた。インフレの公表値は、品質改善などを捉え切れないことにより、真の物価上昇率を過大評価していると広く考えられていたからである。
  • Reifschneider and Williams(1999)などのモデルにより、2%のインフレによってゼロ金利下限は問題にならない、ということが示された。
    • 当時利用可能だったデータではそれは正しいように思われたが、1990年代初頭以降FRBはコアインフレを2%近くに上手く保ったにもかかわらず、FFレートはそのうちの1/3以上の期間においてゼロ近くで推移し、その理屈は破綻した。

第3節では概ね以下のような指摘を行っている。

  • インフレのコストとして通常考えられているのは、交換の媒介としてのお金の機能が損なわれた場合に生じるシューレザーコストが主なものであるが、インフレが現在目標として考えられているものよりも相当高くならない限り、そのコストは無視できる。
  • しかし、インフレ目標引き上げに伴うコストの中には、定量化は難しくとも無視できないものがあり得る。
    • 小幅なインフレといえども価値尺度としてのお金の有用性を損なう可能性がある。過去数十年間のインフレは低かっただけでなく予測可能性が高かった。4%になるとその予測可能性が損なわれるとは言い切れず、1980年代の4%インフレの時代に長期の計画が難しくなったという人もいないだろうが、それをデータで裏付けることはできない。
    • 上記とやや矛盾する話ではあるが、長期的に購買力を減じるインフレの中でも、2%は人々が関心を払わなくても良いほど低い、と言える。2桁や3桁のインフレの時代には人々はしょっちゅうインフレのことを考えている必要があるが、2%ではその必要はなく、人々は予想インフレ予想調整済みの金額ではなく金額でものを考える。
      • その場合、政策担当者から見れば、経済を過熱させて抜きがたいインフレを招いたり、冷やし過ぎて抜きがたいデフレを招いたり、ということを心配しなくて済むので、誤りを犯す余地が大きくなる、というメリットがある。消費者や企業にとっても、認知に費やすリソースを節約できる、というメリットがある。
      • インフレ目標を2%から4%に引き上げるとそうしたメリットが損なわれるとは言い切れないが、他の政策による解決を探し求めるインセンティブをもたらすだけのリスクである、とは言える。しかも、低インフレ環境で長期の支出を行う、ということそのものが他の政策を実施する根拠を強める。

第4節と第5節では以下のような指摘を行っている。

  • r<gであれば、債務を雪だるま式に増やす懸念なしに基礎的財政赤字を計上することができる。1980年代のボルカーのディスインフレの時期を除き、米国では概ねこの条件が満たされてきた。現在、CBOの今後10年の予測成長率は1.8%であり、インフレ連動10年債の利回りは-1%である。また、債務GDP比率は122%である。従って、dd/dt=-b+(r-g)dの式により、米国には3%以上の基礎的財政赤字を計上する余地がある。
  • 民間投資のクラウディングアウトを懸念する人もいるが、r<gは動学的非効率な状態であり、資本蓄積を減らす方が厚生上むしろ望ましい。
  • クラウディングアウトのコストを重視しなくて良いもう一つの理由は、企業の設備投資は実は実質金利にあまり反応しないことである。金利政策は主に住宅投資を通じて機能する。これは、企業の投資は比較的短期であるのに対し、住宅投資は極めて長期であることによる。従って、インフレ目標を低く保ちつつ財政刺激策を実施することは、住宅投資を政府支出で置き換えることになる。
    • 住宅投資への税制優遇措置は、政府の財政赤字による支出によってクラウドアウトされる住宅投資のリターンが相対的に低いことを意味しているので、そのことも長期停滞について金融政策ではなく財政政策を選好する根拠となる。
  • ブランシャールが私信で示唆したように、財政赤字による支出でr*を引き上げることは、予想インフレでマイナスのr*を達成するよりも、子供の貧困対策のような社会的支出を容易にする。
  • なお、ここまでr*は固定ないしゆっくり動くことを想定してきたが、低インフレ経済は民間部門の行き過ぎと縮小によって変動が大きくなるように思われる:1980年代末から1990年代初めに掛けての商業不動産バブルとその破綻、1990年代末のITバブルとその破綻、2000年代半ばの恐るべき住宅バブル。

クルーグマンは小論を以下のように結んでいる。

Can we offset the inevitable downturns with fiscal policy? In principle, yes, although government purchases — as opposed to transfer payments — generally can’t be ramped up quickly. As we saw after the 2008 crisis, however, the political economy of fiscal response is often difficult, which is one important reason to make a technocratic central bank the first line of defense against recessions.
To make this business cycle strategy workable, however, it’s not sufficient that the average nominal interest rate is positive. That average rate has to be sufficiently far above zero that there is enough room to cut when the inevitable downturns happen and monetary expansion is required. Will a combination of persistent fiscal stimulus and 2 percent inflation provide sufficient room for action when needed? I’m worried that it won’t.
Nonetheless, at the moment the case for a fiscal response to the threat of a liquidity trap, as opposed to a higher inflation target, is stronger than the “Princeton School” envisaged in the early 2000s. Maybe central bankers don’t need to be credibly irresponsible after all.
(拙訳)
必然的に生じる景気後退を財政政策で相殺することができるだろうか? 所得移転と違って政府購入は素早く拡大することが一般にできないが、原理的には、その答えは是である。だが、2008年危機の後に我々が目にしたように、財政対応の政治経済学は困難であることが多く、それがテクノクラートである中銀が景気後退への防御の第一線に立つ一つの重要な理由である。
しかし、この景気循環戦略を機能させるためには、平均名目金利がプラスであるだけでは不十分である。必然的に生じる景気後退が訪れて金融拡張策が要求される時に十分な利下げ余地があるように、その平均金利はゼロから十分に上方に離れていなくてはならない。恒久的な財政刺激策と2%インフレの組み合わせは必要時に十分な行動余地を提供してくれるだろうか? 提供しないのではないか、と私は思う。
とは言え、現時点では、流動性の罠の脅威に対し、高いインフレ目標ではなく財政で対応する根拠は、2000年代初めに「プリンストン学派*1」が展望したよりも強いものとなっている。結局のところ、中央銀行家は信頼できる形で無責任になる必要はないかもしれない。

*1:導入部でクルーグマンはこの言葉の命名者をスコット・サムナーに帰している。