紙幣印刷の経済学

High Security Printing Asiaなる会議*1が今月初めにメルボルンで開催され、オーストラリア準備銀行のAssistant GovernorのLindsay Boultonがオープニングスピーチを行った(H/T Mostly Economics)。
以下はその概要。

  • 高度な証券印刷のアジア市場は、経済や所得やインフラの成長に支えられ、生産額にして過去10年間に年間およそ6.5%伸びた。しかし、伸び率は落ちてきている(10年前は約11%→5年前は約5.5%)。部門別の要因はあるものの、デジタル技術の発達が伸びの低下の共通要因となっている。
  • しかし、伸びの低下という全般的な傾向に反する部門が2つある。一つはチケット印刷で、これは公共輸送インフラの発達による。ただ、これもデジタル技術の影響で今後の伸びは鈍化するだろう。面白いことにもう一つは紙幣で、10年前の年間4%から2016年の年間5.5%に伸びが上昇している。緩やかな上昇ではあるが、高度な証券印刷市場全体の4割を占めること、および、紙幣の量の伸びは落ちている(10年前5%→過去1年間2%)ことに鑑みると、この伸びの上昇は重要。
  • 量の伸びが低下して額の伸びが上昇していることは、当然ながら、紙幣の価格が上がっていることを示す。これは、中銀が耐久性と安全性に優れた紙幣を求めていることが一因と思われる。それはアジアだけでなく欧州や北米の一部でも見られる現象。中銀側からすれば、ポリマー紙幣は紙の2倍コストが掛かるが、寿命は3〜4倍に延びるので、中長期的な印刷コストは抑えられる。また、寿命が延びることと偽造技術が進歩していることに鑑みて、安全性も高める必要がある。
  • 今後の行く末については、物理的な現金の未来は限られているという意見もあるが、現金が無くなる(cashless)というよりは少なくなる(less cash)というのが一般的な見方ではないか*2。ただ、最終的にどちらに行き着くにせよ、とりわけ以下の2つの理由によってその過程は急速なものではなく緩やかなものとなるだろう。
  • 一つは、多くの国で現金需要が伸び続けていること(IMF推計によれば中央値は年間9%弱で、環太平洋地域に関する他の推計も同様の結果を報告している)。流通通貨の対国内生産比率は、各国でここ数十年間高止まりしている。貯蔵需要がその背景にある*3。また、取引需要の伸びも落ちてはいるものの、スウェーデンを例外として依然としてプラスである。これは、匿名性、交換と決済の即時性、中銀の負債という信頼性、および、非現金決済が利用できない時や費用が掛かる時にも使えることが理由。
  • 理由が何であれ、現金需要にはある程度反発力がある。その反発力は人口の多いアジアでとりわけ顕著。中国では、他国よりも劇的な電子決済への移行があったにも関わらず、過去4年間で貨幣流通が年間平均5%伸びた。中国の紙幣素材への年間需要は約3万トンで、世界全体のおよそ3割を占める。インドとインドネシアを合わせるとその比率は55%になる。
  • キャッシュレスないしレスキャッシュへの移行が緩やかなものになると考えられるもう一つの理由は、中銀が紙幣インフラに投資し続けていること。個人的な推計によれば、23中銀が投資を実施中ないし最近実施しており、その総額は42.5億豪ドル(35億米ドル)になる。それらの中銀すべてが投資判断を間違えたとは考えにくい。
  • ただし、中銀が紙幣製造に支払う単価が上昇し続けると考えるのは非現実的。耐久性の高い素材や自動化への投資は、中長期のコストを抑えることを目的としている。また、今後の紙幣の更新は、需要低下や技術進歩に鑑みて、数十年間隔の大規模なものではなく、定期的な小規模なものになるかもしれない。さらに、紙幣の券種ごとのパフォーマンスデータを睨みつつ細かく投資を管理するようになるかもしれない。そのほか、セキュリティについて、現在は明示的なものと隠れたものが混在しているが、今後はスマホでもスキャンできるようにより明示的なものにシフトしていくかもしれない。

*1:cf. 主催企業のサイトシンガポールで開催された昨年の会議については株式会社グローバル インフォメーションが日本の代理店を務めたようで、日本語サイトが残っている(会議についての日本語による説明などもそのサイトに詳しい。ちなみにその前のジャカルタマニラの会議や、欧州版の今年も同社が日本の代理店を務めた模様)。

*2:cf. ここ

*3:cf. Mostly Economicsの別エントリで紹介されているVoxEU記事