ケインズがティンバーゲンに問うたこと・補足

昨日紹介したIsraelのブログ記事では、ティンバーゲンの線形性の仮定への批判について、ケインズの以下の言葉を引用している。

It is a very drastic and usually improbable postulate to suppose that all economic forces are of this character, producing independent changes in the phenomenon under investigation which are directly proportional to the changes in themselves; indeed, it is ridiculous.
(拙訳)
すべての経済的な影響がそうした性格を持つとするのは、非常に思い切った、かつ、通常は成立しそうもない仮定である。その仮定では、調査対象の各々独立した変化が、お互いに対して比例的となるが、実際のところ、それは馬鹿げた仮定である。


また、恣意性への批判については以下の言葉を引用している。

I have not noticed any passage in which Prof. Tinbergen himself makes any inductive claims whatever. He appears to be solely concerned with statistical description. Yet the ultimate purpose which Mr. Loveday outlines in the preface is surely an inductive one. If the method cannot prove or disprove a qualitative theory, and if it cannot give a quantitative guide to the future, is it worth while? For, assuredly, it is not a very lucid way of describing the past.
(拙訳)
ティンバーゲン教授自身が何らかの帰納的な主張をした段落を私は一切見い出さなかった。彼は統計的な描写だけに関心があるように思われる。しかし序文でラブデー氏が概説した最終的な目的は、間違いなく帰納的なものである。もしこの手法が定性的な理論を証明も反証もできず、今後に向けた定量的な指針も提供できないのであれば、それに価値はあるのだろうか? というのは、過去を描写する上でもこれはそれほど冴えた方法では無いことは明らかだからである。


さらにケインズは、ティンバーゲンの手法を論理的に考え抜くと「破壊的な矛盾(devastating inconsistencies)」に行き着く、と主張した上で、以下のような比喩を持ち出している。

It becomes like those puzzles for children where you write down your age, multiply, add this and that, subtract something else, and eventually end up with the number of the Beast in Revelation.
(拙訳)
それは例の子供向けのパズルのようなものになっている。そのパズルとは、年齢を書かせ、これを掛けたりあれを足したり、また別の数字を引いたりして、最終的に黙示録の獣の数字が出てくる、というものである。


ちなみにここでケインズが槍玉に挙げたのは、ティンバーゲン国際連盟に依頼された研究をまとめた1939年の「景気循環理論の統計的検証(Statistical Testing of Business Cycle Theories」*1だが、そこからIsraelはティンバーゲンの以下の言葉を引いている。

The part which the statistician can play in this process of analysis must not be misunderstood. The theories which he submits to examination are handed over to him by the economist, and with the economist the responsibility for them must remain; for no statistical test can prove a theory to be correct.
(拙訳)
この分析過程で統計学者が果たせる役割を誤解すべきではない。統計学者が調査する理論は経済学者から手渡されたものであり、その理論の責任はあくまでも経済学者にある。というのは、いかなる統計的検証も理論が正しいことを証明できないからである。

この言葉についてIsraelは、計量経済学者や統計学者はそれほど簡単に無罪放免になるものではない、として以下のような批判を展開している。

While classical and Austrian economists would agree that an economic theory cannot be proven correct empirically, they would not as easily let the statistician off the hook. Indeed, the econometrician and statistician have some responsibility for the economic theories that come to be accepted, especially if one holds, as Tinbergen does, that those theories can be proven “incorrect, or at least incomplete, by showing that it does not cover a particular set of facts.”
This is an odd claim, since practically any theory is incomplete, but this does not mean that it is incorrect. Obviously there remains a twofold danger: A wrong theory might not be proven wrong, although it could be done in principle, and a true theory might be “proven wrong” mistakenly, because it is incomplete as it does not account for some particular set of facts. The econometrician would of course be responsible for these errors.
In fact, the application of statistical methods for the falsification of economic theories is not unconditionally justified. Depending on the kind of theory, there are a number of necessary conditions, which are usually not sufficiently recognized, or even deliberately ignored by modern econometricians.
(拙訳)
古典派とオーストリア学派の経済学者は、経済理論が実証的に証明できないことには同意するだろうが、統計学者をそれほど簡単に無罪放免にはしないだろう。実際のところ、計量経済学者と統計学者は、受け入れられるようになった経済理論に対し幾ばくかの責任を負っている。特に、ティンバーゲンのように、そうした理論が「ある一連の事実をカバーしていないことによって不正確、あるいは少なくとも不完全」であると証明され得る、と考える場合にはそうである。
これは奇妙な主張である。というのは、実際にはあらゆる理論は不完全であるが、それはその理論が不正確であることを意味しないからである。ここでは明らかに2つの危険がある。原理的には間違いと証明できるにも関わらず間違った理論が間違いと証明されないことと、ある一連の事実を説明していないという不完全性によって正しい理論が「間違いと証明される」ことである。計量経済学者は当然ながらそうした過誤に責任がある。
実際、経済理論の反証のために統計的手法を適用することは、無条件に正当化されるわけではない。理論の種類に応じて必要条件が数多く存在する。そうした条件は通常は十分に認識されておらず、場合によっては現代の計量経済学者から故意に無視されている。

その上で、そうした必要条件の幾つかをケインズが1939年の「The Economic Journal」誌でのレビューで既に挙げていたとして、Isrealは、昨日紹介した5項目をまとめたわけである。
Israelはエントリを以下の言葉で結んでいる。

Murray Rothbard once wrote: “There is one good thing about Marx: he was not a Keynesian.” There also seems to be one good thing about Keynes: he was not an econometrician in the modern sense.
(拙訳)
マレー・ロスバードはかつて「マルクスについて良いことが一つある。それは彼がケインジアンでは無かったことである。」と書いた。ケインズについても良いことが一つあるように思われる。それは彼が現代的な意味での計量経済学者では無かったことである。

*1:これ