自由市場主義の悲観主義者はいずこ?

とクリス・ディローが問い掛けている。彼がそうした疑問を抱いたのは、化石燃料がいずれ枯渇するというノアピニオン氏のエントリに対し、デビッド・ヘンダーソンが、エネルギー源の価格が上昇すれば起業家たちに代替的なエネルギー源を発明・開発・生産する強いインセンティブが生じる、と応じたのを見たためである。

ヘンダーソンは、誰かが原油が枯渇すると予言する度に後で必ずそれが間違いだったことが判明しており、今回はそうではないと考えるべき理由は存在しない、と述べている。ディローは、ヘンダーソンの見方は長年に亘って正しかったが*1、水も漏らさぬロジックではない、と指摘している。そこでディローが持ち出したのが、自然の斉一性に関するバートランド・ラッセル鶏の比喩である。即ち、一生に亘って毎朝餌を貰っていた男に最後の日の朝に絞め殺された鶏は、自然の斉一性についてもっと深い見方をすべきだった、という話である。

人類が資源の制約を克服する能力についてのヘンダーソン流の楽観主義は、自由市場主義と結び付けられることが多いが、上記の点からするとその結合に必然性は無い、とディローは論じる。自由市場はイノベーションの必要条件だが十分条件ではない、と整合性を以って主張することも可能だ、と彼は言う。実際のところ、簡単なアイディアは既に発見されているので、イノベーションは以前より困難になった可能性は高い、と彼は指摘する。

そうした悲観主義は自由市場主義と完全に両立可能であり、経済成長が難しくなったならば、分配の効率性がより重要になるという立論もできるし、起業家をそうした分配問題の方向に動機付けることが重要になるのではないか、と彼は論じる。技術進歩の方向性と速度が概ね予測不可能であることを踏まえれば、収穫逓減則が最終的に技術進歩に打ち勝つことも十分に論理的な考えであるし、実際デビッド・リカード邦訳)はそう考えていた、とディローは言う。


ここでディローは冒頭の疑問に立ち返る。このように自由市場主義の悲観主義は十分に成り立つ見解であるのに、なぜあまり見られないのか? なぜ人類の可能性に関する楽観主義の方が自由市場主義と結び付くことが多いのか?

一つ考えられる理由は、自由市場主義たちの方がその批判者たち――平等主義はかなりの部分、極めて悲観主義的な決定ルールであるロールズ最大原理に基いている――よりも楽観的な傾向がある、というものである。しかし、この考えは、政治的保守派が左派よりもリスク回避的である、という研究と矛盾する。自由市場主義者が政治的保守派とは限らないと言う人もあるかもしれないが、少なくとも米国では両者は緊密に結び付いている、とディローは指摘する。
もう一つ考えられる理由は、自由市場主義の右派が反科学的である、というものである。ただ、それに幾ばくかの真実が含まれていたとしても、完全な説明にはならないだろう、とディローは言う。従って、この疑問は依然として謎であり、認識の多様性が望ましいということからすれば残念に思うべき点である、と彼は述べている。

*1:そこでディローはサイモンとエーリッヒの賭けについてのWikipediaエントリにリンクしている。その賭けについての日本語記事はこちらを参照。