聖水論争

16日エントリで紹介したジョン・コクランのエントリでは、財政刺激策を支持するケインジアンを以下のように皮肉っている。

Part of the fashion is to say that all of academic economics is nuts and just abandoned the eternal verities of Keynes 35 years ago, even if nobody ever really did get the foundations right. But they know that such anti-intellectualism is not totally convincing, so it's also fashionable to use new-Keynesian models as holy water. Something like "well, I didn't read all the equations, but Woodford's book sprinkles all the right Lucas-Sargent-Prescott holy water on it and makes this all respectable again." Cognitive dissonance allows one to make these contradictory arguments simultaneously.

Except new-Keynesian economics does no such thing, as I think this example makes clear.
(拙訳)
一つの流行の方法は、ミクロ的基礎付けを誰も本当に正しくできなかったことを脇に置いておいて、学界の経済学はすべてとち狂っており、ケインズの永遠の真実を35年前にとにかく放棄してしまったのだ、と言うことである。しかし、彼らはそうした反知性主義は説得力に欠けることを知っている。そこで使われるもう一つの流行の方法は、ニューケインジアンモデルを聖水として使うことである。「まあ、式に全部目を通したわけではないが、ウッドフォードの本には由緒正しきルーカス=サージェント=プレスコットの聖水が振り撒かれており、それによってこのことは再び尊重すべきものとなった」というわけだ。認知的不協和によって、同じ人がこうした矛盾した主張を同時に行ったりしている。
ただし、上述で私が挙げた例が示す通り、ニューケインジアン経済学はそうしたことを行っていない。・・・

これについてクルーグマンは、18日エントリで、ニューケインジアン経済学はそうしたことを行っている、ということを改めて説明している。