コント:ポール君とグレッグ君(2013年第4弾)

久々にクルーグマンがマンキューに正面から仕掛けた*1

ポール君
グレッグ君の1%擁護論文には多くの人がコメントしたが、僕も言っておきたいことがある。

その前にこれまでの議論の経緯を簡単にまとめておくと、まずグレッグ君が、所得上位1%の人々は貢献に見合う収入を得ているに過ぎない、と主張した。これに対する批判は次の3つに大別される。

一つは、ディーン・ベーカーが言うように、仮に高収入が至当なものだとしても、その額は、知的所有権の尊重や高所得者への低税率といった政治的選択によって決まる部分が大きい、という点だ。

二つ目は、ハロルド・ポラックが言うように、グレッグ君は機会の不平等の問題をあまりにも安易に退けている、という点だ。5分位の最上位に属する人々の子供がその分位に留まる傾向はかなり強く、それはグレッグ君が主因だと考えているらしい遺伝の問題だけで片付けられるものではない。

三つ目は、エコノミスト誌(!)が指摘するように、ロールズの論理を背理法に落とし込もうとするグレッグ君の試み――結果の平等を求めるならば、臓器提供を義務化するべきだ!――は、完全に馬鹿げている。ロールズの考えはあくまでも制約下での平等であり、その制約には基本的人権という概念が含まれている。だからロールズは、「完全な平等を課して、然る後に強制労働という手段でインセンティブの問題に対処しよう」とは言わなかった。エコノミスト誌が言うように、財産の略奪と人々への襲撃は同等ではない*2。同様の理由で、所得税と臓器移植を同一視するのも馬鹿げている。

で、僕が何を付け加えたいかって? ポラックが引用したように、グレッグ君は、自分が両親とも大卒の資格を持たない中流階級の家庭で育ったのに対し、自分の子供たちは両親の家計と学歴という点ではより恵まれた家庭で育ったが、さりとて彼らが同じ年頃の自分よりも大いに機会に恵まれているとは思わない、と書いた。ここで問題なのは、グレッグ君が自分がこれほど成功しなかったかもしれない、という可能性を過小評価している点だけではない。同じ年頃、と書いたところで時代背景の違いを無視していることも問題だ。

えーと、グレッグ君は1958年生まれで、1970年代半ばに大学生になったんじゃなかったかな。つまり、大きな格差拡大が生じる前、ということだ。僕は5歳年上だが、当時の米国は今とは別の国だった。普通の公立高校もその多くは質が高くて、州立大学で安価に良質の高等教育が受けられて、今のエリート層が利用している家庭教師や私塾といったものもほとんど無かった。つまり、アラン・クルーガーのいわゆるGreat Gatsby curveで今とは別の場所に位置する国だったんだ。だから、仮に今のグレッグ君の子供たちが当時のグレッグ君より大いに機会に恵まれているわけではないとしても――それが本当だとは僕は思わないが――、そのことは今日の米国におけるエリート層と中間層の機会の格差とはあまり関係が無い。

ハーバードで教鞭を取っていながら、多くの学生たちが特権階級から来ていることに気付かないわけも無いと思うんだけどね。そういう学生が悪人だというわけじゃあない。ただ、保守派の哲学からして許容できる範囲を超えて世襲的な寡頭制が社会に根付いたことの証左にはなっている。

*1:ちなみに第3弾と今回の第4弾の間にも、マンキューが他者のクルーグマン批判をリンクして当てこするということが2回あったが(ラインハート=ロゴフランズバーグ)いずれも――両者の対決という意味では――あまり話が広がらなかった。

*2:クルーグマンがリンクしたエコノミストの「Democracy in America」コラムでM.S.氏は以下のように書いている:
...how come when I break your window it's just vandalism, whereas when I break your nose it's assault? Because your rights over your own body are more fundamental than other kinds of property rights, that's why.